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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(2)火加減・手加減・味加減

 一口に珍味といっても、その種類は多く、原料も製法も種々雑多である。すなわち、全国的にはフィレ(魚の切り身)や魚卵等、魚介類の可食部を利用するフィレ型珍味が主体であるのに対して、本県では魚介類の個体を丸のまま利用するラウンド型珍味が製品の中心となってきた。「儀助煮」に代表される小魚や小エビ等の調味焙乾(ばいかん)品がこれに当たる(⑧)。

 ア 熟練の技

 **さん(伊予郡松前町北黒田 大正12年生まれ 72歳)
 **さん(伊予郡松前町筒井 大正10年生まれ 74歳)
 珍味作りの始まりについて話してもらった**さんに、今度は、珍味の製造技術についてうかがった。
 「製造工程の中でまず機械化したのは、乾燥機でした。時代は昭和の初めころでしたか。自分で作った自家製でした。長さが4m、奥行きが3mぐらい、レンガを積んで、高さは1間(けん)(約1.8m)ぐらいのものでした。天井は、鉄板を置いて、その上から土をかぶせ、4か所ぐらいから蒸気が出るようになっていました。炭火を使って乾燥させました。炭の上にかぶせる灰の量の具合によって乾燥温度を調節しますから、その灰の量を決めるのに3年ぐらいかかりました。今は、炭ではなく重油を使っています。その移り変わりの境目は、昭和30年(1955年)ぐらいだったかな。」
 続いて、この製造工程にかかわるより詳しい話を、珍味の製造部門一筋に歩んでこられ、今も現役で活躍している**さんにうかがった。
 「製造方法は、昔と今とはずいぶん変わってきとるけんね。調味は、今とあまり変わらないんですけどね。そのあとの、製品になるまでの工程が今とは全然違うわけなんです。
 味付けしたものを乾燥するわけですが、当時の乾燥機は、木炭を下に敷き詰めまして、そしてその上に棚(たな)を12、3段ぐらい作って、棚の上に品物の入った網を積み上げていました。木炭ですから下の段ほど火が強く、上の段ほど火が弱くなります。下から順番に、網を一枚一枚手でひっくり返しながら、棚の上の段と下の段を入れ替えていっていました。今はもうそういうことなしに、バーナーを使った熱風でいっぺんにやりますから、棚を入れ替える必要がありません。また、網の裏返しも今は機械でやります。ですから、昔は、かなりの手間がいりましたし、また温度も炭火だから一定じゃなく、火加減が難しいんです。これに難儀(なんぎ)したんです。今でしたら、センサーが付いていて自動的に温度を調節してくれます。
 炭火でする場合に、あまり強い火でやりますと、できた製品に光沢(こうたく)がなくなるんです。ですから、光沢を出すためには、火加減が非常に難しい。また、あまり弱いと製品が乾かない。午後4時ごろまでに手入れをしておいて、翌朝まで乾燥機の中にそのまま置いておきます。それぐらい置いておかないと製品は乾きません。そのときは、炭火に灰をかぶせて温度を調節しておきます。製品が焦(こ)げ付かないようにです。そこの温度の調節がまた難しいんです。火の上に手をかざして「これぐらいの温度なら焦げんじゃろうなあ。」と。そりゃもう、勘ですわ。その温度も、入れている品物によって全部違うわけなんです。特にエビなどは、火が強すぎるとすぐ焦げてしまいます。数知れん失敗をしました。翌朝出してみたらまっ黒になっとったりね。それで、弱すぎると全然乾いていない。それと、何回か手を入れて、並べてある小魚類を混ぜないと、調味料には飴(あめ)を入れてありますから、製品が団子状 (だんごじょう)になって「粟(あわ)おこし」のようにかちかちになってしまいます。
 当時の作業は、全部手作業じゃけんね。カレイなんかでも、丸々使うわけにはいかんので、5、6cmぐらいの幅に切りそろえるわけですが、全部一匹一匹はさみで摘みよった。また、「五色煮」にはノリが入りよったんですが、ノリを調味液に漬けて上げて、何枚かを重ねて張り合わせるわけです。それを今度は、炭火の乾燥機で乾燥するわけですが、それが乾き過ぎてかちかちにならんように、七分(ぶ)か八分(ぶ)の乾燥にするわけです。どうしてかいうと、それをまた全部はさみで摘むからです。4、5cmの長さで幅が4、5mmのにするわけです。摘んだものは、今度はかりかりになるまで完全乾燥させる。ノリの調理には、かなり手間がかかりましたね。それと、生エビに火を通すのが、弱火ではいかんので強火でやらな、赤い、おいしそうな色が出んわけです。へたをすると色がまっ白になってしまうんです。どうして白なるかというとね、エビの身と殻とがはずれるわけよ。そうすると、殼が白くなる。あの、エビをゆですぎた時の状態と同じようになる。また、生きが悪いとエビの身がやせていきますから、やっぱり身と殻とがはずれてしまう。色を出すためには強火で、また焦がさずに完全乾燥させるためには弱火で、というように火加減の調節が難しいんです。乾燥機の中に入れっぱなしではだめなんです。かなり手間をいれなければ、ええもんはできん。
 いかにおいしそうに見えるか、光沢のある品物を作るかいうことが一番の苦労ですね。乾燥機の中の温度がちょっと悪かったら光沢が出んし、味付けの方法とかタレの炊き方やその温度が悪かったら、同じタレでも照りは出んしね。光沢は非常に大事ですよ。光沢のあるものは、新鮮においしそうに見えますから。光沢がなかったら値打ちがない。それは今でも同じことです。ほじゃから(だから)、毎日、毎日が油断のならん作業です。油断したら、もうええものはできんちゅうことよな。火加減とか、緊張しとらんといかん。毎日同じものはできませんから。昭和35年(1960年)ぐらいまでは、こういう製造の様子だったと思います。いろんなものを作ったけども、売れる、まともなええものができたときは一番うれしいわいね。その時の勘を忘れんようにせんといかん、と思いながらやってきました。」
 「毎日が緊張の連続ですよ。」と語る**さん。その言葉からは、「まだまだ現役」という気概(きがい)が感じられた。

 イ 内職による下請け

 **さん(伊予郡松前町筒井 昭和18年生まれ 52歳)
 珍味の製造は、工場内だけですべての作業が行われたわけではない。工場の外にあって、内職という形で珍味作りを支えた人々もいた。**さんもそうした一人である。
 「わたしらも、サクラガイの串刺しを内職させてもらいよったんですよ、3年間ぐらい。その後、内職から工場内の仕事へ移りました。それが昭和52年(1977年)のことです。今も内職はありますけどね。当時、わたしらの近所で7軒ぐらいが内職をしていたでしょうか。ですから、会社全体では30軒ぐらいは内職の家があったんじゃないでしょうか。今は、数は少なくなっていると思います。
 串に刺すのは全部内職で、工場の中では一切していません。わたしらが工場へ来た当時から内職でしていますね。洗って味付けしたサクラガイを、翌日内職の人たちに出して、それをまた回収して戻ってきて、網にかけて乾燥機に入れ、それを焼きます。
 『バンジュウ』と言いまして、約80cmx50cmぐらいで高さが15cmぐらいの大きさの黄色いプラスチックの容器があるのですが、その1箱に15kgぐらいサクラガイを入れて、配達・回収専門の方が内職をする人に持っていっていました。1箱でも2箱でも、その人ができる範囲で配られていました。ただし、1日で刺し終わらなければいけません。生ものですから。手早い方は1日に2箱ぐらいはされるんじゃないでしょうかね。わたしも2箱ぐらいはしよったと思います。できない場合は、夕方から夜もやったですかね。1箱刺し終わるのに、だいたい3時間ぐらいはかかりました。なんべんか(何回か)しよったら、手早くはなりますね。30kgを請けていたらけっこう忙しくて、『井戸端会議(いどばたかいぎ)』をする暇(ひま)はありませんね。遠くでは、余戸(ようご)(松山市南西部の町で、松前町に隣接)のほうでも内職の方がおいでました。手を刺したりしますから、よそ見はできませんね。冬は寒いので手がかじかんできますから、わたしらもストーブにお湯をかけておいて、それに手をつけて暖めながらしよりました。
 内職は、特に募集があるというわけではなくて、近所のみんながお魚を買いに集まったときなどに口伝えで、一人がしよったら『わたしにもできるかなあ。』と思って、『5kgづつでもしようかね。』というような感じで始めていました。必ずしも、『バンジュウ』1箱単位ではないんです。キロ数ごともあるんですよ。5kg・10kg・15kgといってね。係の人が回ってきたときに、『今日は用事があるから、5kgにして下さい。』とか、今日できるキロ数だけ請けるわけです。また例えば、『今日は子供がカゼをひいているので、できません。』というように断ることもできました。かなり融通(ゆうずう)がきくものでした。友達としていて、自分のところはできたんだけど、そしたら友達のところへ行って手伝うということもしていましたよ。あるいは、子供が小さいから、お互いが子供をみてあげたり、そういうこともありました。内職するなかで、近所付き合いとか助け合いができていましたね。内職をしていた輪というんですかね、今でもその当時の何人かの方とはお付き合いがありますよ。確かに内職にはしんどい面もあるんですが、こういう楽しい面、近所の方々とのかかわりという面もあるんですね。
 今、内職ではサクラガイだけですが、わたしらがしていた時分(昭和40年代後半から昭和50年代の初めころ)は、5cmぐらいのアジを串刺しにしていた時もあるんですよ。1本の串にアジを5匹ぐらい刺して、タレにつけてあぶって、それを70本ぐらいを束にしたものをビンかプラスチックの容器に入れていました。昔、駄菓子屋(だがしや)などに『1本何円』というふうに売られていたものです。小さなエビも、同じように7匹ぐらい串に刺していました。そういう商品がなくなってから、5、6年ぐらいたつでしょうか。10年もはたっていないと思います。
 この仕事の中で、今でも手仕事じゃないとできないことというのは、例えば『さきイカ』ですと、原料(イカ)を機械へ流す人が1人、機械に入る直前で並んでいる向きを整える人が1人、機械から出てきたものを手で裂く人が3人、合計で5人の人手はどうしても必要となるんです。」
 **さん、**さん、**さんの話からうかがえるように、珍味作りは、熟練の職人の技と「家庭内職」に携わる人々の手によって支えられてきた。そこには、人の手のぬくもりが感じられるとともに、地域の労働力に依存し、地域と結び付いて成長してきた地場産業の姿を見ることができた。