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愛媛の景観(平成8年度)

(1)往来を見つめて

 **さん(松山市南吉田町 大正15年生まれ 70歳)
 吉田浜と松山市中心部を結ぶ吉田街道沿いで商業を営んでいる**さんに、昭和前半の吉田街道周辺の移り変わりについて話してもらった。
 「鯛崎(たいざき)から西側『マタマツ』と呼ばれた海岸に至るまで、一面に砂山が広がっていたんです。その手前に、藩政時代にお殿様(松山藩主のこと)が鷹狩りをした『御鷹場』があったそうです。昭和初期、その辺りには20軒ほどの家が散在していました。
 忽那山の南には、歩兵第22連隊の実弾射撃場がありました。ですから、何日かに一度は鉄砲を担いだ兵隊が行進してこの吉田街道を通り、鯛崎の交差点を北に折れて射撃場へ訓練に向かっていました。夕方の5時ころには、訓練を終えて帰っていました。
 昭和初期、吉田街道沿いはすべて田んぼでした。わたしも田んぼのあぜ道を抜けて小学校に通ったものです。昭和16年に始まった松山海軍航空隊の基地建設とともに、街道の南側は田んぼを埋め立て、海軍用地として使用されるようになりました。それと、これも基地建設とともに埋め立てられたのですが、この辺りに大きな池があり、食用ガエルがいっぱい鳴き、魚もたくさんおりました。そこで泳いだこともあります。その時にヒシ(*3)の実を取ってきて、それを蒸して食べたりしました。味はクリのようでおいしかったですよ。この池の岸に(現在、忠魂碑が建っている裏側あたりに)岩があってその岩の上に恵比須(*4)さんの足跡といわれるものがありました。この恵比須さんがそこで鯛を釣ったというので、この『鯛崎』という地名が付いたということです。今の地形を目の前にすると、海岸線ははるか西ですから、ここで鯛を釣ったという伝承は奇妙に思えます。しかし、この辺りで井戸を掘ると地中から貝がらが出てきます。ですから、かつてこの辺りが海岸線だったことがあるのでしょう。
 池の西側の土手に沿ってほぼ南北に通っている道が通称『三津(みつ)街道』です。この通行人をねらって追いはぎが出没するほど、昭和初期ころの鯛崎は寂しい場所でした。
 わたしは、昭和13年(1938年)に大工の弟子になりました。その後、昭和16年からは、徴用によって呉の海軍工廠で働いておりました。昭和20年6月に徴兵を受け、佐世保の海兵隊に入り、そして終戦を迎えました。結局、ここに戻ってきたのが昭和23年(1948年)です。その当時には、海軍関係の建物も取り除かれ、その跡は一面の野原になっていました。民家は3軒しか立っておらず、電気も通じていませんでした。役場で石油の配給を受けながら石油ランプを照明として使う生活が1年間くらい続きました。民家が増えたのは生石八幡神社の参道口の両側あたり(図表4-2-5参照)が早く、さらに吉田街道を挟んだ向かい側に市営住宅もつくられ始めました(*5)。
 終戦後、復員したわたしは建築の仕事に戻りました。ですから、店を始めたのはわたしの家内で、それは昭和28年(1953年)のことでした。帝国人絹松山工場ができる(昭和29年〔1954年〕、着工。翌30年、操業開始)という話を聞き、その従業員をお客さんに当て込んで、店を開いたわけです。ただ、店といっても、当時〝一文店(いちもんみせ)〟と呼ばれていた子供相手の駄菓子屋で、同時に野菜も売っているという程度でした。昭和28年当時の吉田街道沿いには、わたしのところ以外の店はあと3軒ほどありました。八百屋、食料品・たばこ販売店、そしてスーパーがそうです(図表4-2-5参照)。今は3軒ともありません。高岡橋の横には『センターシネマ』という映画館(写真4-2-4参照)もありました。
 帝国人絹松山工場の操業とともに社宅も作られたので(図表4-2-6参照)、わたしの商売もおもしろいくらい繁盛し、昭和35年(1960年)には店をスーパーマーケットに拡張しました。その当時、ここから約50m西へ行ったところから北へ向けて約150m続く『鯛崎商店街』も、同じようににぎやかでした。バーや喫茶店・食堂などもあり、全体にネオンがついて、それはきれいな通りだったですよ。昭和35年から、わたしが建築業をやめ商店経営に専念するようになった昭和45年ころまでが、この辺りが一番繁華な時期でした。今はもうその面影は全くありません(写真4-2-5参照)。」


*3:ヒシ科の一年生水草。根は泥中にあり、葉は水面に浮きひし形。夏、白色四弁の花を開き、角状の突起のある堅果を結
  ぶ。種子は食用。
*4:七福神の一つ。海上・漁業・商業などの守護神。風折烏帽子をかぶり鯛を釣り上げる姿に描かれる。
*5:松山市による市営住宅(木造建て)のこの地区への建設は、南吉田団地として、昭和23年度には90戸、昭和25年度には
  31戸つくられた(⑥)。

図表4-2-5 吉田街道沿いの商店の分布(現在)

図表4-2-5 吉田街道沿いの商店の分布(現在)

住宅地図及び実踏調査により作成。

写真4-2-4 旧センターシネマ

写真4-2-4 旧センターシネマ

一部分が商店などに利用されている。松山市南吉田町。平成8年5月撮影

図表4-2-6 帝人松山工場の社宅建築戸数、従業員の推移(昭和29年から42年まで)

図表4-2-6 帝人松山工場の社宅建築戸数、従業員の推移(昭和29年から42年まで)

帝人株式会社松山事業所提供資料により作成。

写真4-2-5 現在の鯛崎商店街

写真4-2-5 現在の鯛崎商店街

今では、人通りもまばらである(鯛崎交差点より北を望む。)。平成8年5月撮影