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愛媛の景観(平成8年度)

(2)未来への滑走

 最後に、この節を締めくくるにあたって、3度にわたる松山空港の整備・拡張と、それに伴う吉田浜周辺の景観の変ぼうについて、以下にまとめてみた(⑦)。

 〇滑走路600m時代
  昭和16年から18年(1941~43年)、旧海軍の航空基地として建設される。
  昭和20年(1945年)、終戦とともに連合軍に接収され、英連邦軍の小型機用の連絡飛行場として使用される。
  昭和27年、サンフランシスコ講和条約の発効により占領が終了し、連合軍の接収も解除される。
  昭和31年、極東航空株式会社(全日空の前身)の9人乗り双発旅客機デ・ハビランド・ダブによる松山-大阪間の不定期
 航空便が就航する。ここに松山空港は、民間航空の飛行場として本格的に再出発する。
  昭和32年から34年、運輸省航空局により、3か年計画で民間空港として、滑走路、誘導路等の基本施設および無線・照明
 等の保安施設が整備される。

 〇滑走路1,200m時代
  昭和35年(1960年)、滑走路1,200m(海側350m、陸側250m延長)で供用が開始される。
  昭和36年、松山-大阪間の定期便が就航する。
  昭和41年、全日空YS11型機の墜落事故が発生する。

 〇滑走路2,000m時代
  昭和47年(1972年)、2,000m滑走路(海側350m、陸側450m延長)の供用が開始される。中国・四国地方で最初(国
 内では12番目)のジェット機が就航する。
  昭和54年、初の国際チャーター便が香港に飛ぶ。

 〇滑走路2,500m時代
  平成3年(1991年)、2,500m滑走路(海側500m延長)、新ターミナルビルが完成し、供用が開始される。
  平成7年、アシアナ航空が松山-ソウル線を開設する。

 〇発展する松山空港
  松山空港の乗降客数は順調な伸びを示し、過去5年間で約30万人増加し、平成7年度は273万人を超えた(図表4-2-7参
 照)。
  平成8年現在、国内線は東京、大阪線をはじめ北は札幌から南は沖縄(那覇)まで10路線11空港へと充実し、さらに、広
 島を経由して出雲・鳥取ともコミューター(*6)で結ばれている(図表4-2-8参照)。一方国際線は、平成7年4月、初めて
 の国際定期便として韓国・ソウル線が開設し、引き続き近隣アジア諸国を中心に定期便開設を図り、特に香港線開設に向けて
 取り組んでいる。
  また、平成9年3月には新松山空港道路が開通した。この道路は、空港から松山環状線(松山市南江戸町)までを2本のト
 ンネルで直結するもので、その結果、松山空港は松山市街中心部の千舟(ちふね)町と一直線でつながり、さらに四国縦貫自動
 車道の川内-伊予間の開通(平成9年2月)とあわせ、空港へのアクセスが一層向上した。
  松山空港は今、日本の各地へ、そして世界の空へとますますそのネットワークを広げようとしている。


*6:近距離区間航空輸送のこと。50kmから250km以下の短い路線を定期的に運航する航空輸送事業。

図表4-2-7 松山空港の乗降客数の推移・図表4-2-8 松山空港路線図(平成8年末現在)

図表4-2-7 松山空港の乗降客数の推移・図表4-2-8 松山空港路線図(平成8年末現在)

図表4-2-7:『50年のあゆみ(⑦)』P96より作成。図表4-2-8:松山空港ビル株式会社提供資料により作成。