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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

三 三角寺と塩塚高原

 三角寺と奥の院

 三角寺は川之江市金田町にある真言宗の寺で、山号を由霊山といい、四国八八か所霊場第六五番札所である。寺伝によると、聖武天皇の勅願により、天平年間(七二九~七四九)に行基が開基したという。その後、弘仁六年(八一五)に来寺した空海が、本尊十一面観音像と不動明王像を彫り、境内に三角の護摩壇を築いて二一日間降伏護摩の秘法を行ったという。この法は真言密教最高の修法で、その跡が三角の池とよばれて境内に残っている(写真6―25)。三角寺の寺号は、こうした由来にちなんでつけられたものである。
 本尊の十一面観音は、一〇世紀初期の作とみられ、像高一六八㎝の桧の一木造りである。この十一面観音像は、昭和四〇年に県の有形文化財に指定されたが、秘仏のため六〇年ごとの本尊御開帳法要のとき以外は拝観できない。最近では昭和五九年三月に、大門(仁王門)落慶法要と合わせて本尊御開帳法要が行われた。同年は弘法大師千百五十年の御遠忌にあたり、その記念事業として大門の改築が行われた。午前一一時から行われた御開帳法要では、森管長をはじめ宇摩地区内一〇か寺の住職など約二〇人の僧侶が参加し、真言宗最高の儀式を行った。
 三角寺は九世紀初期には嵯峨天皇の信仰をうけ、寺領三〇〇町歩を下賜された。七堂伽藍をそなえて隆盛をほこった三角寺も、天正九年(一五八一)長曽我部氏の進攻による兵火で焼失した。その後再建され、江戸時代初期には弥勤堂・阿弥陀堂・文珠堂・護摩堂などが建ち並んでいた。現在の本堂は嘉永三年(一八五〇)に建築されたもので、大師堂は天保一四年(一八四二)に建てられた。また、昭和五九年に改築した大門は、約二五〇年ぶりに建てかえられたものである。
 三角寺は江戸時代から山桜の名所として知られ、寛政七年(一七九五)には俳人小林一茶も同寺に参詣して、山桜を詠んだ句を残している。また、三角寺は四国自然歩道の「宇摩平野すそのみちコース」と、「三角寺から椿堂へのみちコース」の接点にあたっており、境内にはその休憩所が設置されている。
 宇摩郡新宮村馬立の古野にある仙竜寺は、奥の院の名で親しまれている。奥の院は真言宗大覚寺派に属し、金光山遍照院と号す。また、四国八八か所霊場の番外札所で、三角寺の奥の院ともいわれる(写真6―26)。
 寺伝によると、弘仁六年(八一五)弘法大師と邂逅した法道の開基といわれ、岩屋とよばれる岩窟は、息災増益の護摩壇を築いて修行した跡と伝えられる。奥の院の堂宇は銅山川沿いの急峻な山腹にあり、参道から見上げる大伽藍の姿に圧倒される。この中に売店や食堂が設置されており、巡礼の四国遍路や一般観光客などの参拝客でにぎわっている。
 奥の院の境内に高さ約一八mの清滝があり、八丁坂から清滝を巡って再び本堂前に帰る道順で新四国がおかれている。この新四国は、大正三年(一九一四)春に県内外の信者によって築かれたもので、新宮村には他に旧馬立村と旧新瀬川村にまたがって開設された新四国がある。これは、両村が旧今治藩領であったところから、嘉永元年(一八四八)に新瀬川村庄屋石川与之助か発願し、両村の有力者が協力して開いたものである。新四国巡りの風習は戦後間もなくすたれたが、新宮村は古くから地蔵信仰も盛んで、信仰の厚い土地柄である。

 土佐街道と塩塚高原

 新宮村と川之江市を結ぶ県道川之江大豊線は、標高四九〇mの堀切峠を越える九十九折の道であったが、昭和五五年八月に堀切トンネルが開通して大幅に改善された。堀切峠からは西側の市民の森、東側の呉石高原スポーツランドに至る道が通じている。スポーツランドに隣接してゴルフ場があり、横峰峠からは、水ヶ峰地蔵堂・一升水・不動堂を経て銅山川に至る土佐街道が下っている。
 土佐街道は、享保三年(一七一八)土佐藩主六代山内豊隆が、参勤交代の際はじめてこの道を通って以来盛んに利用されるようになった。土佐街道は、川之江の大岡から高知に至る街道で、土佐藩は川之江に本陣をおいて予土連絡の便をはかった。馬立にも土佐藩の本陣として使われた屋敷が残っており、馬立本陣の名で知られる。この付近は新宮茶の産地で知られ、また延暦一六年(七九七)に開かれた太政官道が通っていた歴史の里でもある。
 新宮村役場に隣接する新宮村郷土館は、たんす・長持ちなどの生活用具や、くわ・せんばこきなどの農具のほか、砂金とりの道具などが展示されている。また、新瀬川土居には昭和四七年に開設した少年自然の家があり、近くの山腹には土佐山内侯の脇本陣屋敷がある。
 塩塚高原は標高一〇四三mの塩塚峰を中心とする高原で、元は地元民のかや刈り場であったが、四一年に県酪連の牧場が開かれた。一時は乳牛が百数十頭も放牧されたが、四九年に閉鎖した。その後、五二年から塩塚高原自然休養村整備事業が進められ、五六年に完成した。この事業は、広く県民の観光レクレーション需要に対応しながら、同時に農業振興と就業構造の改善をめざしたもので、塩塚高原一帯の約三一三〇haが開発された。
 同事業により塩塚高原中腹部に高原野菜用の農地(六・六ha)、学童農園(一ha)、クリ園(二・二ha)などが開かれ、五五年末には塩塚高原自然休養村管理センターが完成した。同センターは自然休養村の拠点となるもので、農民の研修や観光客の宿泊施設として利用される。また、塩塚峰は少年自然の家を利用する小・中学生の登山訓練の場としてよく利用されている(図6―16)。



図6-16 新宮村の観光地(門田原図)

図6-16 新宮村の観光地(門田原図)