データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

4 中学校・高等女学校の拡充

 中学校令の改正

 明治三二年二月に中学校令が再改正された。これは去る二七年に「高等学校令」が制定され、高等中学校の専門教育機関化に伴い、旧中学校令のなかにあった高等中学校に関する諸規定を削除する必要があったためであった。新しい中学校令では、文部大臣は府県に中学校の増設を命ずることができると規定し、中学校の増加について著しい積極性を示した。続いて「中学校編成及設備規則」・「中学校令施行規則」・「中学校教授要目」が公布されたことによって、実業に関する教育はすべて「実業学校令」により、女子を対象とした中等教育は別に「高等女学令」によることとなり、中学校とは全く別個の過程を進んだ。
 この中学校令で注目される点は、教科課程が一般教養的な学科に集中し、高等教育の予備的な性格を持ち、その準備教育を行うところとなったことである。しかしその半面、完成教育とする見方も強く残存していたから、相異なる二つの性格を持った。中学校教授要目は実施上の注意をはじめ各科目の内容が詳細にわたって記述された。これによって教科内容及びその根拠が明確に画一化され、その後長く改変されなかったから、中学校教育の基礎がつくられたといい得る。

 大洲・今治中学校の独立

 明治三二年一一月に喜多郡会において、大洲町に郡立中学校を設置することを決議し、県費の補助を申請した。翌三三年二月に、「喜多郡立喜多学校設置伺」書が提出され、三月に設置の認可を受け、四月に開校した。その後、地元ではこれを県立に移管しようとする熱烈な運動が展開された。
 県でも翌三四年から大洲に県立宇和島中学校の分校を、今治に西条中学校の分校を設置する方針を明示した。その案は同三三年一一月の県会に上程されたが、紛糾のすえ両分校を同時に設けることは県費膨張のおりから当を得ないとして、まず大洲分校のみを承認した。その結果、地元の要望が実を結び、翌三四年三月に設立認可を得て、四月に開校した。
 今治地区でも、中学校を設置しようとする動きがあったが、たまたま町立高等女学校創設の熱烈な運動が起こっていた。越智郡会でも両校のうちいずれを先にするかについて論議があった。しかし地元では女学校を創立する要望が高かったため、同三二年に町立高等女学校が出現した。県では大洲分校と同時に、西条中学校今治分校設置議案を県会に提出し、文部省から設置の認可を受けたけれども、前記のとおり財政問題から一年延期され、同三五年四月ようやく分校開設の念願を達成した。
 大洲・今治地区では第三学年までの教科課程を終了すると、本校の宇和島・西条へ赴かなければならなかったので、分校に在籍した生徒及び家庭の不便は想像以上のものがあった。
 そこで、両地区では分校を独立校にしようとする運動が起こった。喜多郡出身の県会議員らは、同三六年一一月の県会に大洲中学校独立案を提出し、異議なく承認された。翌三七年一月に文部省から認可を受け、四月から開校した。また三七年一二月に開かれた議会に、越智郡出身の議員から同三八年度から今治中学校独立案が出され、満場一致で採択された。同校は三八年一月に認可された。

 私立北予中学校

 北予英学校(明治二六年設立)の創立者城哲三は、同校を基盤として中学校設立を決意し、県に設置請願書を提出し、県費の補助を請願した。県会では、山本盛信らが松山中学校の入学競争率の激化状況を憂慮し、城らの熱情に対する同情とにより、同三三年から県の補助金を支出することになった。この時定められた「北予中学校学則」は六二か条からなり、中学校令第一条に基づき男子に須要な高等普通教育を施すところとし、生徒定員を五〇〇名と予想した(愛媛県教育史 資料編一九〇~一九七)。同三三年一月に文部省から学校設置の認可を受けたので、城は城北練兵場の西方の地所を借り校舎を新築して、四月に開校した。
 ところが、翌三四年に内部に紛争が起こったばかりでなく、多額の負債に悩まされ、同校の前途は暗雲に包まれた。県会議員井上要をはじめ地方の有志三一名は中等教育振興のうえから、同校の存続と将来の拡張のために、北予中学会を設立して、文部省の認可を受けた。北予中学会はもっぱら学校の経営にあたり、白川福儀が専務理事となった。同会は県の補助金、松山市からの借入金、有志の寄付金を得て、教室・講堂・生徒控室などを増築した。
 白川は同三七年二月に同校校長となり、文部省に申請して、視学官らの調査を経て、中学校としての認定を受けた。これによって、同校は創設以来の念願を達成することができた。しかし、負債の償還は予想どおり進まず、その間に処した白川の苦心と不安とは、言語を絶するものがあった。彼は有志の寄付金と頼母子(たのもし)講によって、ようやく難局を切り抜ける有り様であった。同会は温泉・伊予二郡の補助金によって、校地の拡張、教室の増築を完成することができた。

 松山・宇和島・今治高等女学校の県立移管

 同三二年二月に「高等女学校令」が発布され、県では松山の私立、宇和島・今治の二町立高等女学校を整備するために、一挙に三校を県立に移管する意向のもとに、同年一一月の県会に計った。議会では県費多端を理由とする松山一校説もあったが、多数決で県の原案が通過した。
 これら三校をそのまま県に移管するには、校地も狭小であり、また施設も不十分であった。そこで県は各市町当局に対し、敷地及び校舎建設についての協力を求めた。松山市では市会の決議を経て、新たに温泉郡雄群村字藤原に四、〇〇〇坪の農地を購入して県に提供した。今治町では校地一、五〇〇坪の計画にしたがい、新校地を今治村字高堤に選定した。また北宇和郡会では、校舎建設費として五、五〇〇円の支出を議決した。
 これより先、県立三高等女学校の設立は、同三三年九月及び一〇月に認可された。さらに一〇月五日に「愛媛県立松山高等女学校規則」及び他の二高等女学校規則が制定された(愛媛県教育史 資料編二二二~二二八)。三校の規則の内容はほぼ同様であって、総則・本科・技芸専修科・補習科・授業料・賞罰の六章からなっていた。高等女学校は「女子ニ須要ナル高等普通教育ヲ施シ、兼テ女子ニ適当ナル技芸ヲ授クル所トス」と規定され、修業年限は本科五年、技芸専修科三年、補習科一年であった。つぎに教科課程について考えられることは、中学校が強いアカデミズムによって支配されたのに対し、女学校は家庭生活への実科的教育が重視されたので、中学校に比較すると教養内容は低かった。松山高等女学校では、県立移管の功労者渡部明綱が校長となり、翌三四年四月一五日に、校舎の新築落成式をかねて、開校式が挙行された。同校の職員は二五人(男一三・女一二)で、生徒定員四〇〇人に対して在籍生徒数は四二六人(本科三〇六・技芸専修科一〇九・補習科一一)であって、一一学級に編成されていた。
 同三四年に高等女学校に関する諸規則が整備統合され、「高等女学校令施行規則」が公布されたので、一〇月三一日に各校別の高等女学校規則が廃されて「愛媛県立高等女学校規則」が制定された(愛媛県教育史 資料編二四七~二五五)。これによると、生徒定員が松山五〇〇人、宇和島・今治各二五〇人となり、修業年限三校ともに本科四年・技芸専修科二年に改められた。この改正により、松山高女では翌三五年三月の卒業式に、本科第五学年四三人、第四学年六四人、補習科七人、専修科四二人に証書が授与された。