データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

伊予市誌

二四、力持ち善喜 (下吾川)

 今から一九〇年ほど前、下吾川の沖庄に善喜という男の子が生まれた。生まれつき頭の働きは鈍かったが、顔や体が並はずれて大きく、ものすごい力持ちであった。小さいときから食事のたびに一升(一・八㍑)の飯を、またたくまに食べていたというから、貧乏なこの百姓家では大へんなことだったであろう。
 やがて大きくなると、近くの地主、田中庄兵衛の家に下男(下働きの男)としてやとわれたが、ここでも主人夫婦を驚かすことがたびたびであった。
 あるとき、田中家で一〇人分ぐらいのうどんを大釜にゆでておいたところ、善喜はほとんどそれをひとりで食べてしまった。それから、少し残ったうどんを自分の満腹した太鼓腹にのせて、
「うどんをいっぱい食べたら、腹が裂けてしもた。」
と、なんぎそうにいったので、主人夫婦がそれを本気にして大騒ぎとなった。
 ある日、上吾川の八幡池の土手の修理に行かされた。このときには、大食いの力持ちがたくさん仕事に来ていた。飯どきとなり、飯の食べくらべをしようということになった。北の土手から南の上手まで往復しながら、手に持った弁当を誰が早く食べ終わるかという競争だった。善喜は、南の土手にまだ半分も行かないうちに、いち早く食べ終わって、から箱を両手で頭の上にさし挙げて、踊り始めたので、みんなびっくりして拍手かっさい。はやす声は八幡の森をゆるがせた。
 また、山仕事に行くのに、田中家を出るとき、二合半(〇・五㍑)ほどの焼き米をいっぺんに口にほうりこんで出かけ、下三谷の入り□の藪の下まで口を動かせながら歩いていた。
 力の中でも腕の力が特に強く、秋のとり入れなどには、米俵を倉に入れるのに、四斗二升(約七六㍑)の米俵を二俵もやすやすと肩にかつぎ、そのうえ、左手に一俵をさげて平気で運んだ。この米を運ぶとき、いっぺんに五俵背負って行って、途中で一俵脱け落ちたのも気づかず、着いて初めて気づき拾いに帰った。また、郡中町の蔵役所へ米を納めなければならないので、二俵の米を若主人と二人で棒にさし、かついで行ったが、途中、若主人が小便をしたくなって棒から肩をはずしたのに善喜はそのままかついでいた。
 田中家には、この善喜のほかに二人の下男がいたが、善喜より早くから奉公していて、年齢も上であったので、毎年の給金も善喜より多かったのが善喜にとっては、力のないくせにと気に入らなかった。そこで、あるとき、屋敷の下肥を汲みとるとき、二人の下男たちが汲みこんだ肥桶を裏口から荷ない出そうとすると、
「そんな囲り道をして運んでたまるものか。おれがつき出すから、お前らは塀の外で受け取れ。」
といって、肥桶にあふれんばかりの下肥を汲み入れ、それを棒の先につり下げて、かるがると塀越しに外へつき出したので、二人の下男は驚いて、やっとの思いで受け止めて下へおろしたが、これには閉口した。
 あるとき、上吾川の白水で寄相撲があった。そこで、善喜もみんなといっしょに見物に行った。ところが、とび入り相撲ということになって、みんなが力自慢の善喜に、
「お前の力なら勝てるぞ、やってみい。」
といった。相手はどんどん勝ち進んで来ている。色あくまで黒く、たくましく伊予きっての相撲上手、時嵐という力士である。善喜は、ちょつとひるんだが皆があんまりすすめるので土俵にあがった。この珍しい取り組みに、見物人たちは熱狂してどよめいた。
 善喜は、時嵐に向かい合うと、行司の軍配を引く手も待たず、不意に時嵐の両手首をつかんだ。時嵐は驚いて、これを振り離そうとしたが、相撲を知らない善喜は、ただただ満身の力をこめて握りしめるので、時嵐はどうすることもできなかった。手はしびれたようになり、手の血は止まり、みるみるうちに顔がまっさおになった時嵐に対して、一押すればもう善喜の勝ちである。見物人は夢中になって、手をたたき、声をあげて応援した。しかし、善喜は、こんなことには慣れていないので、ここでちょっと手の力をゆるめて、すぐ握りかえようとした。その瞬間、さすがは時嵐である。これを見のがすはずはなく、ぱっと手を振りほどいた。そして、なお迫ってくる善喜を逃げながら肩すかしをして土俵に腹ばわせた。
 しかし、時嵐は、このことがいつまでも心に残った。
「替地(郡中のこと)には、うかうか行かれん。あそこには、何ともいえぬ力持ちがおって、ひどい目におうた。あのときのことを思うとぞっとする。」
と、人ごとに話していたという。