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中山町誌

四、 旧町村の環境衛生

 隔離病舎
 伝染病患者を収容する隔離病舎の建設は、明治時代から行われた。旧佐礼谷村においては、明治二八年(一八九五)村会に提出する議案によると木造藁ぶき三九坪、六棟見積金額一二〇円と定め、年度途中の事業として追加予算で提案しているので(議決文書が明かでない)、明治二八年か二九年頃に、日浦「長成」へ建設された。その後、大正一三年頃坪之内(旧佐礼谷診療所用地)へ移転改築され、昭和二一年頃坪之内八八九番地ほかへ再度移転されている。
 旧中山村においては、建設年度は明らかでないが、明治四三年(一九一〇)の村有財産明細をみると、「永木隔離病舎四五坪九合五勺三棟、第一傅染病舎建物一一三坪五合五勺五棟、出渕避病舎建物五九坪三合六棟」と記されている。大正一二年の明細表によると、「第一隔離病舎敷地二反一七歩、第二隔離病舎敷地六畝二歩、隔離病舎建物一一三坪五合五勺」とある。また、昭和四〇年発行の『中山町誌』には「昭和三五年頃福元(現保育園地)日南登・永木にそれぞれ避病舎があったが、その後日南登、永木は廃止と記されており、明治四三年当時の、永木、出渕が廃止され第一傅染病舎建物が福元に残ったものではないかと思われる。
 当時は、各町村とも傅染病の発生に備え非常に重要な施設であり、本施設の建設維持管理については、多くの経費を要したのである。
 昭和三〇年二月、町村合併により福元地区の病舎は老朽化し、昭和三五年五月福元区通称野市に病床一〇の隔離病舎として新築した。以来昭和四九年三月まで、本町の隔離病舎の役割を果し、同年四月本町が松山伝染病院組合(松山市、北条市、伊予市、松前町、重信町、砥部町、双海町、広田村)に加入したことによって閉舎された。

 火葬場
 伝染病死者として、法規上火葬すべきものについて、火葬場が必要であった。旧佐礼谷村においては記録によると火葬場の建設は次のようになっている。

   所 在 地 佐礼谷村ヒノジ四号二〇九番地
   面   積 一〇・〇〇平方メートル
   料   金 三〇銭
   設立年月日 明治三五年一〇月一七日
   構造の概要 一間半日本建屋根瓦葺竈及ビ煙突ハ煉瓦ヲ以テ築上竈内部ハロストルヲ敷キテ竈ロハ厚サ五分ノ鉄板ヲ以テ作ル

 旧佐礼谷村 火葬場使用料徴収条例
第一条 本村建設ニ係ル傅染病火葬場ヲ使用セムコトヲ願出ルモノアルトキハ本条例ノ規定ニヨリ使用料ヲ徴収シテ之ヲ許可スルモノトス

第二条 前条使用料ノ額ヲ定ムルコト左ノ如シ
 一村内住民タル死者一人ニ付金参拾銭
 一他市町村住民タル死者一人ニ付金五拾銭

第三条 本村内住民傅染病死者ニシテ法規上火葬スベキモノハ使用料ヲ免除ス
  (明治三七年八月八日村会議決、一〇月二六日大蔵・内務省許可)

 旧中山村では、明治時代の記録は見当らないが、火葬場は大正一五年烏ケ森に建設され、昭和三七年(一九六ニ)一月に改築し、建坪六坪重油バナー兼薪用二基を新設した。昭和三〇年二月、町村合併以来昭和五八年までその役目を果たして来たが、伊予消防等事務組合が設立され聖浄苑の建設によって閉場された。