データベース『えひめの記憶』
中山町誌
第四節 シベリア出兵と郷土
大正六年(一九一七)三月、ロシアに革命が起き、帝政ロシアが倒れてソビエト新政府が生まれ、革命過激派軍によって、国内の治安は乱れ、各国軍が出兵することになり日本と米国は、シベリアに出兵し、バイカル湖以東を占領した。シベリア出兵開始は、一九一八年四月五日。
大正八年(一九一九)七月、歩兵第二二連隊はシベリア出征中の第三師団に代わって派遣を命ぜられた。当時二二連隊は第五師団(広島)第九旅団の所属で、六月二四日動員下令、七月二日高浜出帆、同月七日ウラジオストックに上陸した。
その後一年有余の間、ウラジオストック及びチタ方面にあって、地方警備とロシア軍の掃討に当った。特に大正九年一月には第三大隊野中支隊のムホールシビール及びヒロークの討伐戦、同年四月五日第二大隊東支隊のシコトワならびにウラジオストックにおける武装解除と掃討、四月一二日連隊主力によるドムノクリュウチェフスカヤの戦闘等最も激烈な戦いに参加、同年六月停戦協定成立して、同年八月三〇日全員集合、九月二日~四日の三日間にウラジオストックから乗船、九月七・八・九日の三日間に高浜港に上陸して凱旋した。
その後、第一次世界大戦後の財政の建て直しの必要や、社会主義思想の台頭による反戦反軍思想は世界的風潮となった。日本においても大正一一年(一九二二)には、山梨軍縮が、さらに同一四年には宇垣軍縮が断行され、軍備の大幅な縮小が行われた。これらの編制縮小の結果、歩兵第二二連隊は再び第一一師団の所管に復することになった。この時の編制概要は次のとおりである。
この時、配属将校の制度が設けられ、中学校以上の各校において基本的軍事教練が行われることになった。在学中にこの訓練に成績優秀な者は、兵役入隊後に一年志願兵に採用され、予備役の初級将校に任官する途が開かれていた。この制度は後に幹部候補制度に改められ、甲種は将校に、乙種は下士官に昇進した。
ちなみに、この年(大正一四年)四月に、中山村は町制施行で中山町となっている。