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中山町誌

六、 野菜

 野菜生産に関しての本格的な取り組みは、昭和三〇年西岡進農協組合長が、葉たばこ跡作の白菜栽培に着眼し、組織の力を生かした県外(大阪市場)出荷に取り組んだのが最初である。その後、農協指導部の積極的指導によって一躍県下の主産地となった。面積一〇ヘクタール、約四〇〇トンの生産量で、一時、三〇ヘクタールに達したこともあった。当時早出しの白菜として、また、共同出荷では特異なものとして注目されたが、やがて喜多郡、上浮穴郡等の中山間地帯へと産地が次第に拡大され、中山町を中心に伊予白菜の指定産地とまでなった。
 ところが、その後生産の増大により、価格の暴落等もあって大阪市場出荷が採算割れとなることも多く、東予、松山を中心とした県内出荷に転じた。しかし、価格の不安定化はその後も継続し、徐々に衰退の道をたどっていったようである。とは言え、畑作現金収入、輸送園芸として、中山特産野菜の進歩の端緒であったことはいうまでもなく、従来、低収入雑穀のみしか考えられなかった畑作を転換して、商品生産の契機を作ったことは、現在の中山町を見ても大きな意義があったと言える。
 なお昭和三五~三七年頃にトマト、西瓜の産地として最盛期を迎え、二〇ヘクタール、八〇〇トンにも達したことがある。その後、温州みかん、栗等果樹の全盛期を迎え、野菜の農協共販出荷は消滅した。こうした中、天けつ・小池・長沢・門前・安別当等一部の野菜生産地は、県内市場とのつながりの中で、生産出荷組合を組織し現在も運営中である。
 しかし、時代の流れを変える大きな出来事が昭和五一年勃発する。みかんの樹液が動き始めた春先に、未曽有の大寒波が襲来したのである。このため、中山町全域のみかん樹が被害を受け、葉が茶色に変色し、さながら山火事跡状態となったのである。全面枯死状態となった園も少なくなかった。この応急対策に各関係機関が検討をした結果、カボチャとサツマイモの導入を図り急場をしのいだが、その後、みかんの転換作物として野菜の導入が各地で進み出した。こうした状況の中、農協、野菜生産出荷組合等を中心に共販出荷販売の取り組みについて検討がなされ、昭和五三年農協野菜部会が結成され現在に至っている。
 当初、露地トマト、きゅうり、たまねぎを中心に共同出荷が開始され、昭和五四年にはトマト、きゅうりが国の指定産地となり、その数年後、たまねぎが県の価格安定基金制度に加入し、安定生産供給を目指す足掛かりとなった。また、気象の影響を受けやすいトマトについては、昭和五四年頃より雨避けハウス栽培が導入され、その普及が急速に進み、現在はそのほとんどがハウス栽培となっている。
 平成六年には、農協野菜部会員数も二六〇名と増加し、共販品目もインゲン・ほんれんそう・長ナス・みょうが等拡大され、共販額も約三億円と伸長してきた。現在、老齢化等が急速に進む中、今後の飛躍的な野菜振興を図ることは困難な状況にあるが、ハウス等施設の導入を積極的に推進し、単位面積あたりの収益性の高い経営に改善していきたいものである。