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中山町誌

九、 畜産

(一)、和 牛
 明治以前は荷役その他の役用として馬が多かったことが、獣医を「馬医さん」と呼んでいたことから想像される。
 牛の頭数が手牛(自家飼育)として多くなったのは、戦後で、その歴史は比較的新しい。
 それ以前は各地区でも二~三頭、それも有力な農家だけが飼育し、一般農家からは宝のごとく羨望されていたものである。
 昭和二五~二八年頃、政府の有畜農家指導もあって畜牛飼育が急激に増加し、大半の農家が一頭の牛を有し、総数五〇〇頭にも達したことがある。
 その主体は和牛であるが、やがてティラーの導入・機械化に加え、素牛購入及び販売が低迷し、昭和四〇年代には三〇〇頭代へと減少した。
 さらに昭和五〇年代に入ると、一頭飼い農家はほとんどなくなり、変わって、肉用牛生産が主体となり、一〇戸で約一五〇頭の飼育をみるに至った。
 しかし肉価は、外国から安く輸入され低迷し、飼育農家の所得も不安定となり六〇年代には急激し、現在では、一〇数頭の飼育のみとなった。

 (二)、酪 農
 酪農は昭和三二年長沢地区に導入され、続いて永木・福住にも及んだ。農協では昭和三六年七月長沢・永木地区の酪農を統一合併し、その集乳を一手に引き受け温泉青果農協三津工場へ出荷した。
 その当時の総飼育頭数八〇頭・搾乳牛六〇頭・搾乳量月平均二万キロリットルであった。
 昭和四五年頃温泉青果より、県酪連へと移行し、当時は約二〇戸の飼育農家があった。
 昭和五〇年代に入ると、約一〇戸で一五〇頭となり、現在では、六戸の一二〇頭飼育へと減少した。

 (三)、養 豚
 以前から一部には、副業的に養豚が行われていたが、本格的な経営がなされるようになったのは、昭和四七年からである。
 その頃は土地利用型農業から、施設型農業への移行が図られている時期であり、高度成長期のピーク時でもあった。
 当初は、一戸が母豚一〇〇頭の肉豚生産による一貫経営を行っていたが、その後、子豚生産の繁殖経営農家六戸も経営を開始した。
 昭和五一年には、第二次農業構造改善事業により、肉豚生産を目的とし、見残し団地(参加農家五戸)が完成し、町内での一貫生産体制が整えられた。
 昭和五八年に母豚五〇頭の種豚場が完成し、町内養豚農家への母豚供給も始まった。
 一方輸入自由化の中で、豚価の低迷により、これの打開策として、昭和五八年から経営向上を図るため、町内一貫経営から、個々一貫経営へと施設の改善がなされ、県内でも有数の肉豚生産の産地となった。
 昭和六〇年代から平成になると、生産性向上見直しにり、母豚一頭当たり肉豚出荷二〇頭へと改善された。ピーク時には、母豚約七三〇頭、肉頭出荷年間一四、五〇頭にもなった。

 (四)、その他
 昭和二三年当時の繊維不足から緬羊が導入され、昭和二八年頃には、八〇頭に達した時期もある。
 山羊についても、自家用蛋白供給源として、戦後二〇〇頭を数えていたが、今では時代の変遷に伴い皆無となった。

 (五)、預り牛
 当地の副業的畜産として興味深いものに預り牛制度があった。これは平坦部の牛を年間又は季節的に預って飼育し、その手間賃を受け取る仕組みである。大部分は七月上旬(平坦部田植終了)から一〇月中旬(麦作整地)までの夏草期のもので、有力な問屋がこの間に介在している。そしてこの問屋を経て牛主と預り手が契約し、さらに預り期間中の生育・肉付きの度合いを評価して手間賃(預り手数料)を定めていた。
 この制度は古く明治・大正時代からのものらしく、問屋には泉町一の嶋田謙次郎(後に重松謙九郎引継)・犬寄の飛田熊吉、それと大平にもう一人いたらしい。
 昭和二八年頃山間地農家の手持牛の急増・人件費の高騰などにより自然消滅となったが、多い年には、中山町だけで五〇〇頭に上る牛が犬寄峠を越えて来たと考えられ、松山街道は季節ともなれば牛の行列が続いたといわれる。
 なお飼育手数料の一例を示すと次表のとおりである。

表1-30 預り牛飼育手数料

表1-30 預り牛飼育手数料