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久万町誌

2 第二次世界大戦当時

 戦時に入ると農業も昭和恐慌から回復し、農業と他産業の不均衡成長ないし格差という問題も影をひそめ、農政も戦時政策と全体主義の特質をもたざるをえなくなった。
 いうまでもなく、戦時農政の目的は、食糧農産物の充足にあって、農政はふたたび、食糧問題に対処しなくてはならなくなった。しかも、それは、ますます欠乏する資材と労働力の事情のもとにおいて強行された。
 労働力についてみると農業従事者は、昭和一五年の一三八四万一〇〇○人から、昭和一九年には、一三三七万人も減少した。その間に、産業構造はますます高度化し、農業は産業別の国民所得のうち二〇%を割った。
 戦時農政の特質の一つは、その進展のうちに地主制の後退をもたらしたことである。農地関係の立法としては、昭和元年からはじめられた自作農創設維持事業の拡大と強化・昭和一三年の農地調整法のほか、翌年の小作料統制令による生産物小作料額の引上げの制限・昭和一六年の臨時農地価格統制令による農地価格の公定・同年の臨時農地等管理令による農地転用の制限などがある。これらによって農地関係も法律的規制を受けることが多くなった。
 戦争経済の推移に伴って、食糧の需給がひっ迫した。特に昭和一四年における朝鮮の大旱魃を契機として内地への移入が激減した。そこで昭和一六年米穀統制法に代わって、輸出入臨時措置法や国家総動員法にもとづく臨時的、個別的な食糧の統制管理が行われていた。しかし、昭和一七年には、これらを統一して、恒久的な制度として食糧管理法が制定された。
 食糧管理法は制定以来、十数次の改正が行われ、今日なお存続しているのである。制定当時におけるその骨子は、政府が食糧を管理し、その需給と価格の調整、配給の統制を行うものであった。その対象は米と麦のほか、いも類、雑殼など食糧加工品にまで及んでいた。米麦の生産者または地主に対しては、政府の定める公定価格で政府へ売り渡す義務を課し、その数量は市町村農業会が定めることになっていた。政府の買い入れた食糧は食糧営団に売り渡し、これを通じて消費者に配給するしくみになっていた。
 食糧管理法とともに、臨時農地等管理令、農業生産統制令、農業生産奨励規則などによって、主要食糧については作付の割当、政府への売り渡しの強制など権力的規制が全面的に行われた。その他の食糧農産物などについても、作付の規制・流通の統制・生産の奨励などの措置が講ぜられた。果樹その他一部の農作物については、不急作物として作付の禁止すら行われた。それにもかかわらず、戦時下の食糧の生産は減退を余儀なくされた。
 食糧農産物以外では、昭和一四年の種馬統制法と軍馬資格保護法による軍馬の確保・昭和一三年の飼料配給統制法による飼料の配給統制・昭和一四年の酪農調整法による牛乳の販売統制や乳製品製造業の統制・昭和一六年の蚕糸統制法による蚕糸業の全面的統制などをあげることができる。更に農業団体については、昭和一八年に農業団体法が制定され、全体主義を基調として、従来の農会・産業組合・畜産組合などを農業会として一元化し、農業統制の一翼を担うことになった。