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久万町誌

三 江西 蔵山

  ○ 略 歴
 蔵山は諱(死後に尊んでつけた称号)を宗勅、字(学者・文人などが実名のほかにつけた名まえ)は貴謙、老後は散木子、大聾翁などと号(学者・文人・画家などが実名や字のほかに用いた雅名)した。
 松山市山越町にある臨済宗の寺院、江西山天徳寺の第一一世を継いだ名僧である。
 天徳寺は、河野通有で知られた河野家の菩提寺(一家の先祖をとむらった寺)であり、代々の松山城主の信仰の厚かったゆいしょある寺である。
 蔵山は、正徳二年(一七一二)船草昌由の第三子として生まれた。母は通夜といい、明和四年(一七六七)一〇月二五日、蔵山が五五歳のとき没した。また、蔵山には一〇人の兄弟があった。
 船草家の先祖は、船草出羽守昌綱(大除城主大野直昌の幕下で、船草城の城主、長曽我部元親との戦いに敗れ、天正三年(一五七五)九月五日(一九日ともいう)東明神の窪屋敷にて、九五歳で病死)である。
 この船草出羽守昌綱が、船草家の菩提寺として建立したのが美川村に現存する正覚山光明寺である。
 この正覚山光明寺は、初め曹洞宗竜沢寺(東宇和郡魚成にある)の末寺であったが、天正一〇年(一五八二)九月、雲巌和尚(天徳寺第二世となった傑僧)を迎え、光明寺中興の開祖としたことから臨済宗に改宗し天徳寺の末寺となった。
 蔵山は、このように船草家正覚山光明寺、江西山天徳寺などとの結びつきにより、享保五年(一七二○)九歳で天徳寺の霊叟和尚に従って出家した。
 蔵山の父船草昌由は、久万町に在住していたが公命により柳井川の庄屋となり、のちに梅木氏のあとを継いで七鳥の庄屋となった。このような昌由の第三子として生まれた蔵山が、なぜ出家したかその原因はわからない。
 延享二年(一七四五)一〇月七日、第一〇世霊獄和尚の示寂(高僧の死をいう)したあと、同年一一月一五日、蔵山は三四歳で天徳寺の法統を継いだ。天明二年(一七八二)五月二六日、七一歳で隠居し天徳寺の塔頭、吸江庵に住し、天明八年(一七八八)一〇月七日、七七歳で示寂した。
 ○ 蔵山の威徳
 蔵山は、仏学はもとより儒学、老荘の学を修め、書道は特にすぐれ、行書、草書はことのほか巧みであった。学問においては松山藩で屈指の学僧といわれ、書は天下の名筆として知られていた。蔵山の書について正岡子規は次のように言っている。
 「円光寺明月と天徳寺蔵山は、わが藩随一の名筆であるのみならず、天下の名筆である」
 また、松山叢談第九巻の下に、久松定静公の治世が記されているが、その中に、
  天徳寺一○世(一一世の誤り)蔵山は、書名高く、すでに、公へも御手本を差し上げしよし、明和・安永のころ(一七六四から一七八〇)その名近国へ響き、別して、芸州(広島県のこと)にては、これを尊び、頼春水(頼山陽の父)も初年は蔵山を頼りて我が邦へ来たる。蔵山もしばしば教授せしが、その凡ならざるを見て早く三都へ出で、よき書筋を求め、修行あるべし。我々の手にては、終身のためならず、と辞せしとぞ。それより春水、浪華にいたり、堺にすめる趙陶斉の門にはいりしと言う。さすが蔵山、そのみこみしところたがわず、ついに春水の書名、全国にとどろきしなり。とある。
 さて、前文中の「公」は第八代の松山藩主定静(明和二年藩主となり安永八年に没した)であり、上浮穴郡に今日も大きな恩恵をもたらしている凶荒予備組合のもととなった「非常囲籾の制度」を設けた名君である。
 定静は、自らは非常に倹約をし、他方、学問を奨励し、学者を優遇した。そういった中で蔵山も定静の敬愛を受け、講義や法話をし、書の手本を書いていた。定静は、京都冷泉為村の弟子で和歌に長じていた。
 頼春水が天徳寺に奇寓し、蔵山に書の指導を受けたのは一二歳のころであった。その当時、既に春水は神童の名をほしいままにし、学問・書道に抜群の才能を見せはじめていた。春水は、のちに広島の浅野公に仕えた藩の儒学者である。
 春水が安芸の国(広島県)竹原から、父享翁に伴われて、蔵山を慕ってきたのは宝暦七年(一七五七)孟春(五月)のことである。蔵山四六歳のときであった。蔵山が師となることを固く辞し、天下の名士に師事せんことを勧めたので、春水は二か月ほどで帰った。この時のい事情を、当時の家老菅五郎左衛門に、次のように書き送っている。
  (前略)
  先々月末に、芸州竹原と申す所の農家者の子息、当年一二歳に罷り成り候者、その親子、道後入湯に罷り越し候ところ、右一二歳の子、名は子圭と言い、書画をよくし、ならびに詩も作り申し候。近来珍しき怜悧者に御座候。少々訳御座候て、先月一四日ごろ野寺へ引き移り、先月中逗留仕り、私左右に差し置き、少々ずつは私よりは助言も仕り、日々唐紙一〇枚、二〇枚ばかり、諸方の求めに応じ揮染仕り候ところ、滞留中にも少々は精進も仕り候様に御座候。過日、帰国仕り候。さてさて驚き入り申す聡明者に御座候。滞留中に篆刻も仕り候。これをもって細工も器用に御座候。そのほか、何事にても一通り相伝候ことは よくよくおぼえ仕り候(以下略)
 蔵山が春水をどのように認めていたかがよくわかる。
 蔵山と春水の交際は、このようにして始まり、一生を通じて変わらなかった。
  ○ 蔵山の書風
 我が国が明暦、万治のころ(一六五五から一六六〇)支那は明末であったので、明の多くの遺民が、我が国に渡日帰化した。その中で特に、多くのすぐれた禅僧の渡来を見逃すことはできない。隠元・即非・千呆・木庵等がそのおもなるものである。即非・千呆は、松山の千秋寺の開山をし、更に初代にもなった人で、伊予に縁故があるため、その筆跡に接することが多い。それらの人々の書には、一連の共通したところがあって、いかにも清楚、洒脱なものである。蔵山の書は、これらの人の影響を受けたものであって。特に隠元の書に傾倒したのか、よく隠元の書を臨書しており、今なお存している。
 正岡子規が、佐伯政直(子規の従兄弟)にあてだけ書簡(明治三二年八月二三日付)に蔵山評が出ている。「……日本人の字、大方拙くいやみある様に覚え候。殊に書家の字は、野卑の極に有之云々。僧侶の字、存外垢ぬけしたるもの多く候。松山にては蔵山和尚・明月和尚の書など尋常をぬけ居り候云々。私、前年帰省の節、蔵山の破幅を得て、当地(東京)にて人に示し候処、皆々驚き居り候。それと蔵訳の竹とは私の宝にて、松山を誇るに足り申候云々」