データベース『えひめの記憶』
面河村誌
六 災害史
災害の主たるものは、台風に伴う風と雨の被害である。大風は人家・農作物に、大雨は洪水となり道路・橋梁を破壊し、時たまの異常寒波・大雪は農作物・人家に被害を与える。
これらの災害も、明治以前、又は明治の二十年ごろまでは、それを知る手がかりはない。ただ、「久万山手鑑」により、簡単にその事例をあげてみる。
○元和元年(一六二〇)八月大雨 河川流れを変える(久万山地方)
○寛文九年(一六六九)六月洪水、八月大風 田畑流失、死人多数(久万山地方)
○同 十二月大雪 人家多数被害(久万山地方)
○貞享四年(一六八七)六月三日より八月上旬まで雨なく旱魃(久万山地方)
○元禄四年(一六九一)八月大風 農作物取れず生活困窮、木の被害も多く、生活の道なくなる者多し(久万山地方)
○元禄九年(一六九六) 十一月八日より、十二月三日まで大雪、三尺から七尺ぐらい(久万山地方)
○文政四年(一八二一) 五〇年来の大雪、麦作その他皆不作(久万山地方)
○嘉永七年(一八五四) 十一月四・五・六日の三日間大地震(久万山地方)
○安政四年(一八五七) 八月大地震(久万山地方)
(以上「久万山手鑑」)
次に「愛媛県誌稿」により、明治、大正時代の災害を抜粋すれば、
○明治六年(一八七三)八月暴風雨、同十月風水害
○明治七年(一八七四)七月以降風水害頻発
○明治十三年(一八八〇)九月風水害
○明治十七年(一八八四)九月風水害
○明治十九年(一八八六)八月洪水 大暴風・洪水・人家畑作被害(面河)
○明治二十六年(一八九三)十月風水害
○明治三十二年(一八九九)八月洪水
○明治三十八年(一九〇五)七月風水害
○明治四十一年(一九〇八)八月非常風水害
○明治四十三年(一九一〇)九月非常風害
○大正元年(一九一二)八月非常風水害
○大正二年(一九一三)七月非常風水害
○大正四年(一九一五)九月非常風水害
(以上「愛媛県誌稿」)
昭和以降、主な災害では次のようなものがある。
○昭和九年(一九三四)九月室戸台風 関西地方大暴風雨、死者行方不明三、〇三六人(全国)
○昭和十八年(一九四三)九月 西日本に台風、死者・行方不明七六八人(西日本)
○昭和二十年(一九四五)九月枕崎台風 県下一円の風水害。橋梁・畑作に被害多し(面河)
○昭和二十五年(一九五〇)九月ジェーン台風 死者行方不明五三九人(全国)
○昭和三十四年(一九五九)九月伊勢湾台風 明治以来最大の被害、被害家屋約四六万戸・死者行方不明五、一二五人(全国)
○昭和三十六年(一九六三)九月第二室戸台風 東日本に被害、死者行方不明一八九人(東日本)
○昭和四十七年(一九七二)七月台風九号 降水量、石鎚山成就三九七ミリ・久万二三二ミリ・石鎚山系で七〇〇ミリに達する所もあり。
石鎚スカイラインの地すべり、地盤低下のため、若山地区七七世帯一五六人に対して、本村初めての避難命令を面河村長中川鬼子太郎発令す。
○昭和四十八年(一九七三)十二月大雪 積雪約ニメートル、乗合バス五十余日不通(面河)
○昭和五十年(一九七五)八月台風第五・六号 降水量石鎚山成就五六四ミリ、久万一八四ミリ、面河川は明治以来の大洪水
面河村関係
農地関係一〇か所 一五〇三万円
道路破壊四五か所 復旧費一億九六〇〇万円
愛媛県関係
石鎚スカイライン道路破壊八五か所 復旧費九億六九〇〇万円
石鎚スカイライン河川破壊四か所 復旧費四億九一七万円
石鎚スカイライン砂防二か所 復旧費三五五四万円
面河村内県道(除スカイライン)破壊 復旧費八九六七万円
県道河川破壊一九か所 復旧費一億六五万円
県道砂防一か所 復旧費六四五万円
以上台風第五・六号の被害総額は、次のとおり
面河村関係 二億一六〇三万円
愛媛県関係 一二億四二五三万円
合 計 一四億五八五六万円
なお、石鎚スカイラインは、八月十七日から九月二十一日に至る、三六日間通行禁止となった。
○昭和五十一年(一九七六)九月台風一七号 降水量、石鎚山成就八日~十三日総雨量一一六〇ミリ、これは総雨量として最大、久万五七七ミリ
被災二〇〇〇世帯、死者行方不明一一人 災害総額五五〇億円
愛媛県
九月二十二日村内大成で地崩れ、一八世帯が孤立、生活道ふさぐ、
物資はワイヤー運搬
面河村関係
道路破壊二二か所 復旧費三億九七二〇万円
農地関係破壊一一か所 復旧費七四九万円
愛媛県関係
石鎚スカイライン破壊一七か所 復旧費九六一七万円
面河村内県道破壊五三か所 復旧費二億九四八六万円
県道河川破壊六か所 復旧費二三五五万円
県道砂防五か所 復旧費五九一九万円
以上台風一七号の被害総額は、次のとおり
面河村関係 四億一二一八万円
愛媛県関係 三億六七七七万円
合 計 七億七九九五万円
○昭和五十一年(一九七六)十二月異状寒波 久万町で(-)六・七度Cを記録、国道三三号線凍結、面河村でも道路凍結、茶の被害
以上で、石鎚・面河の大自然の影響を受けた数々の災害の大要を述べた。系統的な記録もなく、あちこちの資料を拾い集めたものではあるが、四国の屋根ともいわれるこの面河で、永年にわたる住民の自然との戦いが、なみなみならぬ悪戦苦闘であったことをある程度うかがい知ることができる。
一夜の暴風で、主食の玉蜀黍をなぎ倒される食糧飢饉。丸木橋を渡って通学する児童の水難事故。大正六年(一九一七)一月、雪の面河山で杣職人が、同じく二月、雪の黒森街道で松山帰りの女性の遭難など、この大自然の脅威を受けながら、ある意味では、四苦八苦して、我々の祖先は、この郷土で生きてきた。
今の世の開発は時の流れであり、新時代の住民の生活を、物質的にも、精神的にも、豊かにする為の必須条件でもあろう。しかしながら、それに伴う自然破壊は、ときには、その見返りとして、自然の暴威をもろに受けているともいえる。昭和四十七年(一九七二)以降の風水害は、ある意味で、あながちすべてが天災ともいえまい。
大風も、大雨も、大雪も、人の力ではどうにもならなく、要は開発と、自然環境保全の兼ね合いをじゅうぶん考えなければならない。