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新居浜市

鷲尾勘解治(1881〜1981)

 明治14年~昭和56年(1881~1981)実業家。兵庫県武庫郡須磨村(現神戸市)で明治14年5月10日生まれる。神戸一中・五高・京都帝大法学部卒業。京都大学時代に大徳寺広州の下で禅の修業を積み、師広州と鈴木馬左也との関係から住友別子鉱業所に入社。鷲尾の入社は,明治40年(1907)の別子銅山の坑夫暴動の直後であり、彼は一介の坑夫として3年間坑内で働き、その体験をもとに坑夫教育に当たった。明治45年、鈴木総理事の支持を受けて私塾「自彊舎」の塾長となり、坑夫との労使関係の融和に努め、大正11年、別子鉱業所労働課初代課長。昭和2年(1927)、別子鉱業所支配人、昭和5年、住友合資会社理事。彼は、昭和初年、白石誉二郎新居浜町長を資金的に援助して新居浜港の築港と海岸部の埋立てに力を貸し、都市計画道路を完成して昭和通りと命名した。住友機械の創設、住友化学の拡張など鉱山に代わる産業振興策など四国一の工業都市新居浜発展の基礎を築いた。住友退職後は大日本航空輸送、五反田クレーンを経営していたが、昭和28年旧知の人々に招かねて、新居浜市で晩年を送る。昭和56年4月13日死没、99歳。(『愛媛県史 人物』より)

【自彊舎について】
 1907年(明治40年)10月住友別子鉱業所に赴任した鷲尾勘解治翁は、自ら志願して一坑夫として坑内作業に従事する。その貴重な体験から、1912年(大正元年)8月、翁は旧別子山中の風呂屋谷に青年鉱夫を訓育するための私塾「自彊舎」を発足させた。自彊舎の命名は当時の住友総理事鈴木馬左也氏で、易経の「自彊不息(じきょうふそく)」(自ら彊〔つと〕めて息〔や〕まず)による(写真③参照)。翁は、青年鉱夫と起居を共にして研鑽に励み、その影響は職場から家庭へ更に地域社会へ広がり、現状を改善し未来を志向する活動の大きな推進力となった。自彊舎は、別子山中から東平時代を経て、1926年(昭和元年)には川口新田(角野新田町)へ移転。自彊舎での厳しい研修は、企業や地域社会の核となる人材を輩出した。
 翁の基本理念に、「円融(えんゆう)」と「共存共栄」がある。円融とは、それぞれがその立場を保ちながら、互いに溶け合っていて、障りのないことであり、共存共栄は、自他ともに生き、繁栄することである。翁は、企業と地方・労働者が共に繁栄することを願い、新居浜の持続的な発展を重んじた。
 翁は、一時新居浜を離れたが、多くの支持者に迎えられ新居浜に帰住し、1958年(昭和33年)に企業や有志から寄贈された菊本の地を自彊舎活動の拠点とした。500名程の会員に対する講話のほか月刊誌「益友」を発行するなど社会教育の推進に努めた。
 翁の没後、1981年(昭和56年)12月に社団法人自彊舎記念会が設立され、その活動や教えが継承されてきた。しかし、2013年(平成25年)10月、法人制度改革・会員の高齢化等の事由により記念会は解散。土地及び所蔵品等は新居浜市に寄附された。
 この地が今日の新居浜市発展の礎を築いた翁と自彊舎の記念の地であることをここに記し、その精神は将来にわたり新居浜市民の心に受け継がれることを願う。
 平成27年3月吉日    
                              新居浜市長 石 川 勝 行
(自彊舎跡地に設置された説明板より)

【追記】
①共存橋・共栄橋は、1931年(昭和6年)に竣工した昭和通りに架けられた橋である。橋の改修で初代の橋柱は、それぞれ広瀬公園に保存されていたが、平成27年2月に自彊舎跡地の整備に伴い、菊本に移設した。
②新居浜市立川町にある龍河神社の社名石の揮毫は、鷲尾勘解治翁のものである。

①自彊舎跡地

①自彊舎跡地

新居浜市菊本町1丁目

②自彊舎記念碑Ⅰ

②自彊舎記念碑Ⅰ

新居浜市菊本町1丁目

③自彊舎記念碑Ⅱ

③自彊舎記念碑Ⅱ

新居浜市菊本町1丁目

④黙翁鷲尾勘解治先生像

④黙翁鷲尾勘解治先生像

新居浜市菊本町1丁目

⑤共存橋・共栄橋の橋柱

⑤共存橋・共栄橋の橋柱

新居浜市菊本町1丁目

⑥天野喜四郎翁顕彰碑(鷲尾勘解治翁による揮毫)

⑥天野喜四郎翁顕彰碑(鷲尾勘解治翁による揮毫)

新居浜市多喜浜6丁目

⑦宗像神社にある顕彰碑

⑦宗像神社にある顕彰碑

新居浜市八雲町10-18

⑧山根公園

⑧山根公園

新居浜市角野新田町3丁目11