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松山市

白川福儀(1858~1916)

 県会議員・議長、松山市長、北予中学校長。安政5年9月10日、松山藩士門田正業の長男に生まれ、後、白川福明の養子になった。幼年のころ、藩校明教館、石鉄県校や大原観山の漢学熟に学び、明治8年上京して三島中洲の塾で修学、一時甲斐及び近江地方の学校教師を勤めた。 12年帰郷して県官となったが、ほどなく辞職して民権結社公共社で機関紙「海南新聞」の編集を弟門田正経と共に担当、17年編集長ついで社長となった。 20年の三大事件建白運動ではその建白書の起草に当たり、総代として藤野政高らと上京、その後も自由党の論客として藤野と行動を共にした。 25年県会議員に当選、議長に選ばれて28年までその任にあった。 29年1月21日市会の推挙を受けて松山市長に就任、35年1月14日満期退職した。ついで私立北予中学校の経営母体北予中学会の専務理事となり、37年に校長に就任した。以来在職14年、財政難の学校経営に苦労しながら同校の基礎を固めた。大正5年1月4日、校長在職のまま没した。 57歳。遺骸は学校の見える千秋寺に葬られ、のち、北予中学校(現松山北高校)正門傍に「白川先生頌徳碑」が建てられた。政治家としては沈着篤実であり、生徒指導は温情主義で臨み、誠実・醇朴で剛毅な人物を養成しようとした。その教育方針は北予中学スピリットとして生き続けた。(『愛媛県史 人物』から)

①白川先生頌徳碑

①白川先生頌徳碑

松山市文京町4-1(愛媛県立松山北高等学校内)