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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(3)電車に乗って

 **さん(伊予市下吾川 昭和4年生まれ 66歳)
 鉄道会社では、「最初に現場体験をさせる」のが一般的で、伊予鉄の場合は市内電車の車掌からスタートし、郊外電車の車掌、市内電車の運転士、郊外電車の運転士、そして監督と進むのが標準的なコースである。**さんは、昭和21年(1946年)に伊予鉄に入社後、最初は立花駅に配属され、1か月間の改集札係を振り出しに10か月ほど駅員をやってから、市内電車の車掌になった。**さんから、乗務にまつわる苦労話を聞かせてもらった。

 ア 市内電車の車掌の苦労

 今と比べるとずいぶん短いんですが、2週間くらいの研修の後、1回どおり乗せてもろて、次からはすぐ乗務です。最初の1週間くらいは二人で一人前というわけで、「2(に)こ1(いち)」と言いまして、新人二人で一人分の仕事をこなすんです。そしていよいよ一人で乗務するんですが、城北線の駅名を覚えていない(図表3-1-3参照)。それで、乗客に売るための切符に駅名が印刷しとるのを見もって、駅名の呼称をしよりました。「次は、○○です。」と言うのが、まあ最初は恥ずかしいですね。とくにね、知った人が乗ったときなんか、ちょっと言いにくかったです。
 わたしらが乗り始めたときはね、市内電車の扉は全部で4か所、前方(運転士側)と後方(車掌側)それぞれの左右2か所にありました。駅によって、停留所のホームが左にいったり右にいったりで、今みたいに定まってなかったんです。扉の開け閉めも手で行い、使わない扉には「ラッチ」(写真3-1-5参照)を掛けて閉めとかんと、がらがらっと開いてしまいよったんです。
 「運賃箱」が導入されてお客さんが降車時に運賃を現金で払うようになる(昭和42年〔1967年〕)までは、市内電車でも切符が使われていました。運転士と車掌は、お客さんが降りるときに切符を受け取り、貯金箱のような金属製の箱に納めるんです。
 先輩の運転士は、お金をもろてチャリンといわすのを嫌がりよりました。たぶん、車掌が怠けて切符を売らんかったと思うのでしょう。当時、「車掌は、必ず乗客に切符を売るように。次の停留所に着くまでに、必ず1回は車内を回れ。」と指導されていました。わたしは、わりとくそまじめなほうでしたから、ほとんど守っていたんです。ですから、運転士の所で、チャリンいうてお金が入る音を聞くと悔しゅうてね。お客さんにしたら、「面倒くさい。切符を買うたりせいでも、降りるときに金渡したらええが。」ということなんでしょうが、自分が売りに行ったのに買ってくれなんだという不満と、先輩の運転士から、「こんな、ろくに仕事しよらんのか。」と思われせまいかという気遣いとで、なんかプライドを傷つけられたような気がしました。
 4年後からは郊外電車の車掌になりました。終点に着くまでに車内(3両)を1往復する程度でよく、市内電車と比べたら、「こんな楽な仕事、あるんかなあ。」と思いました。

 イ 乗務員の勤務パターン

 乗務員の勤務パターンは、伊予鉄の場合、約3分の1の者が「日勤」、残りの3分の2が「交代」で、これが2班に分かれていたんです。「日勤」の者は、多少時間がずれてきますが、基本的には朝から夕方までの昼間の乗務です。「交代」の者は、昼ごろ出勤し、その日は夜まで乗務した後、泊まりです。翌朝の始発電車や、車庫から出ていく電車を担当するので、車庫のある古町のほかに市内線の道後にも乗務員宿泊所があって、そこで泊まるんです(現在は、高浜、横河原、郡中港の各駅でも宿泊)。わたしらが現役のころは、道後駅の2階で、蚊帳(かや)吊(つ)って寝ておりました。そして、翌日は、早朝から乗務して昼ごろ勤務が明け、次の日の昼ごろまで約24時間の休みになるんです。「交代」の者は、希望を出しても、欠員がでない限り「日勤」になれないんですが、中には「『交代』じゃないなら、会社を辞める。」という者もおったそうです。
 戦前に伊予鉄に入った方の中には近郷の小規模農家が多かったんで、昼間に農作業ができるし、早朝や深夜の通勤を考えると案外具合がいいということで、当時からこのパターンは続いとるようです。

 ウ 路面電車と自動車との戦い

 昭和30年代の後半から40年代にかけては、全国各地の路面電車がどんどん廃止されていきました。その影響もあったと思うんですが、「電車がおらなんだら、もっと道が広うなって、車が早(は)よ進める。」ということで、タクシー業界が中心になって「松山の路面電車も廃止したらどうか。」という声が強くなり、県か市へ「路面電車廃止の陳情」が出されたこともあるんです。
 路面電車の軌道敷内は基本的には車は走ったらいけないんですが、「公園前」から「上一万」の間は道路の幅員が狭いので、「軌道敷通行可(ただし、電車の進路をふさいではならん。)」になっとったんです(写真3-1-6参照)。県民文化会館ができて(昭和62年〔1987年〕)道が広がってからも、2区間ほど残っておりますが、これが、全体のマナーを悪くした要因の一つですね。道後のほうから来て、交差点で信号待ちをする車を一気に抜くために、線路(軌道)の中を平気でサーッと走っていくんです。交差点で、前が行けんのわかっとっても、先に入り込んで止まっとる車も多くなりましたね。
 土佐電鉄(高知市)や、廃止前の西鉄(福岡市)の路面電車を見てきましたが、これはひどかったですね。車が電車の前後左右を取り巻いとるんですよ。ほじゃから、車が流れんと電車が流れん。これには、わたしもたまげました。
 最近またとくに、市内電車が走りぬくう(走りにくく)なったようです。とくに上一万から勝山町にかけての道路は、よく渋滞しとるでしょ。「これは待ちよったら、長いだ(長い間)かかるけん。」と思(っ)て、近道するために車がひょいと右折してくる。電車の直前に切り込んでくるわけですから、これはもう、避けようがない。「伊予の早曲がり」と言うんでしょうか、あれはちょいちょい事故があって悩まされました。だから、なんにもなかったらサーッと走れるんですけど、車が渋滞しとるときはいつ車が入ってくるかわからんから、用心して速度を出せんのです。そうすると、どうしてもダイヤが乱れる。運転士は、「車が邪魔して、なんぼにも(少しも思うように)定時に走れんがあ。」と言うてぼやいていました。
 よその都市から来た人は、松山のドライバーは、まだ比較的マナーはよいほうだと言っていました。大部分のドライバーがルールを守ってくれたおかげで、路面電車が生き残れたのは、たいへんありがたいことです。

 エ 電車を降りて運行をささえる

 市内電車がワンマン化された直後、古町駅で城北線の運行管理を担当しておりました。運行管理をしよると、よく、「1日中ヒヤヒヤしてるだろう。」と言われるんですが、わずか3kmほどの単線区間ですから、正常に動きよるときにはあまり心配しなかったです。ただし、ダイヤが乱れたときは神経を使いました。

 (ア)置き石

 一時、置き石がはやってね、木屋町(きやちょう)と清水町の間で、決まったように石が置いてあった。運転指導をする乗務監督らに見に行ってもろたりしよったんじゃけど、やっぱりいかん。それで、運転士から通報があったときに、わたしが私服で行って見よったこともありますが、大事故につながりかねないんで、ヒヤッとしました。
 わたしが小学校に行きよった時分のことですが、金めっきしたブリキでできた桜模様のボタンを線路の上に置いて、坊っちゃん列車に轢(ひ)かすんですよ。ほたら、一銭玉みたいになるんが面白いんでねえ。それでも、ボタンでは脱線することはないと思とったし、石を置いたりはしませんでした。

 (イ)イチョウの葉に悩む

 花園町(市駅~南堀端)のイチョウ並木には、毎年、葉が落ちる季節になると、悩まされます。イチョウの葉にはものすごい油があるんで、車輪が落ち葉に乗ったら、電車が止まらんのです。ブレーキを大きに締めりゃ締めるほど、ツツツツツーッといってね。交差点の中で、止まっとるパトカーに当たったこともあるんですよ。
 ほじゃから、怖いんでそうじをするんですが、その対策として、「熊本市交通局で、シュロの手箒(てぼうき)を付けたら効果があった。」と聞いたので、車両課に頼んで付けてもろて試したことがあります。だけど、やっぱりだめでした。その後、熊本でも効果がないのでやめたそうです。
 風がないといいんですけど、風が吹くと、歩道辺にある落ち葉まで線路の中へ入ってきますし、車が通るたびに車道の落ち葉も電車のほうへ吹き飛ばすんです。
 運転士には、「大きいブレーキをとるな。やわらかいブレーキをかけよ。」と、指導しました。自動車でも、凍った路面で急ブレーキかけたら滑るのは、同じことじゃわいね。
 退職する前の年(昭和63年〔1988年〕)には、大勢で市役所へ出向いて、イチョウの弊害を訴えながら「木を変えてくれ。」と言うたんです。落ち葉の掃除については前向きに協力してくれることになりましたが、「イチョウを花園町のシンボルにするんで、変えるわけにはいかん。」ということでした。

 (ウ)運転士の個性と乗り心地

 機関車や昔の電車のころは、列車の乗り心地というのは運転士の力量の差によるところが大きかったようですけど、今はねえ、昔ほどじゃないです。乗ってて多少は癖を感じることもありますが、電車も変わりましたからほぼ均一的になったように思います。
 わたしが乗務監督のころ、通勤の時に電車に乗るでしょ。運転士の顔見てなかっても、「あっ、この電車の運転士は○○○じゃないかな。」と思ったら案の定そうやって、本人に、「ブレーキの時には、もうちょっと研究せいや。」じゃの言うたこともあります。
 ただし、機械がどうなろうと、「自分の腕の見せどころ」という気でやるから、運転士自身の気質とかプライドは、あんまり変わってないんじゃないかなあ。

 オ 退職後に乗る電車

 週に1回くらいは、たいがい電車にも乗って、運転士に現況を聞いたり、昔との違いやぐちを聞いたりするのを、楽しみにしとるんです。CTC(集中列車制御装置)やATS(自動列車停止装置)も付いたし、踏切の遮断機もほぼ完備して、安全性はずいぶん高まったようですねえ。
 今は車社会ですから、これから先まだまだ車は増えていくと思いますが、それに先行して道路が整備されることは無理だと思います。朝のラッシュのときに、一人しか乗ってない車が何台も道路を占めるのに比べたら、一度に何百人もの乗客を運べる鉄道は、輸送密度が高いわけです。だから、路面電車のステップや安全地帯を改良してもっと乗りやすくするとか、やはり、将来的には鉄道を生かしていかないかんと思いますねえ。
 電車のスピードアップと、市街地の交通混雑の解消のためには、早よ、鉄道と道路との立体交差化を進めてもらいたいですねえ。今、衣山から古町まで高架化工事(平成9年度完成予定)を進めている高浜線はその先の古町から市駅まで、横河原線は市駅から石手川公園まで、郡中線も土居田まで、連続して高架になって、市駅も古町の車庫も2階になったらええなあ、というのが、わたしの夢です。
 さらに、ヨーロッパではすでにやっておる都市もあるそうですが、将来的には、市の中心部への車の乗り入れを制限して、公共交通機関を利用するとか、思いきった対策も必要になってくるでしょうね。

図表3-1-3 現在の伊予鉄道(市内線)路線図

図表3-1-3 現在の伊予鉄道(市内線)路線図


写真3-1-5 市内電車の扉の「ラッチ」

写真3-1-5 市内電車の扉の「ラッチ」

円内は、閉めた状態の拡大図。平成8年1月撮影

写真3-1-6 県民文化会館前の電車軌道

写真3-1-6 県民文化会館前の電車軌道

左の交通標識は、中央白丸部分を拡大したもの。平成8年1月撮影