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第四展示室(文芸)

名前 生年・没年 説明
桑折 宗臣
コオリ ムネシゲ
1634~1686

宇和島藩家老
俳人
歌人

江戸(現東京都)の宇和島藩邸で宇和島藩初代藩主伊達秀宗の四男として生まれる。伊予俳人の手による公刊俳書『大海集』を発表するなど多数の著書を残した。
秦 一景
ハタ イッケイ
生年不詳
~1686

松山藩御用商人
俳人

伊勢国桑名郡(現三重県)生まれ。藩主松平定行の転封とともに松山に移る。御用商人として活躍する一方、俳句にも熱心で、松山に貞門俳諧を広め、松山俳壇を活気づかせた。
石田 画水
イシダ ガスイ
生没年不詳
(江戸時代)

俳人

宇摩郡八日市(現四国中央市土居町)生まれ。寛文6年の『俳諧洗濯物』に初出し、翌年の『続山井』『伊勢踊』に入集。延宝4年の『到来集』にも、多くの句が収められている。
久松 粛山
ヒサマツ 
シュクザン
1652~1706

松山藩家老
俳人

松山城下(現松山市)生まれ。藩主松平定直に仕えて重責を果たす一方、俳諧を好み、江戸在勤中に芭蕉・其角に俳諧を学んだ。帰国後は、伊予に蕉風俳諧を広めた。
坂上 羨鳥
サカウエ 
センチョウ
1653~1730

庄屋
俳人

宇摩郡中之庄村(現四国中央市中之庄町)生まれ。商用の際上方談林派の俳人らと交遊を重ね、上方の俳人を伊予に紹介した。また、信仰心も厚く、多くの寺社に寄進を続けた。
松平 定直
マツダイラ 
サダナオ
1660~1720

松山・松平家
第4代藩主
俳人

江戸(現東京都)の今治藩邸で生まれる。松山藩主松平定長の養子となり、家督を相続した。儒学の興隆を図る一方、俳諧に興味を持ち、其角へ入門するなど俳諧を伊予に広めた。
中山 更互
ナカヤマ コウゴ
1688~1759

松山藩士
俳人

松山城下(現松山市)を中心に活動。蕉風俳人であるが、淡々流の影響もうけ、甥の中山五嶺に淡々流の文書を伝えた。句は『十夜の霜』『素羅宴』などに収められている。
谷脇 恩竹
タニワキ 
オンチク
1693~1762

俳人
商人

宇和島城下(現宇和島市)を中心に活躍した俳人で、談林派の芳室に入門。『棗亀』『妻戸埜波那』にも句を寄せるなど、宇和島俳壇の中心的存在であった。
河端 五雲
カワバタ ゴウン
1699~1772

松山藩士
俳人

松山城下(現松山市)生まれ。江戸勤務の余暇に佐久間柳居より俳諧を学び、松山初期俳壇の発展に貢献した。句集『矢立の露』『大名竹』がある。
小倉 志山
オグラ シザン
1701~1762

俳人
商人

松山城下(現松山市)を中心に活動。松山・久万の蕉風俳諧の重鎮として『俳諧霜夜塚』を刊行し、久万の大宝寺境内に、県内最古の芭蕉句碑を建立した。
高月 狸兄
タカツキ リケイ
生年不詳
~1762

俳人
商人

伊予吉田藩の御用商人・高月家当主。淡々門の主要俳人富天に師事し、『妻戸埜波那』に連句を寄せている。伊勢神宮などへの紀行『存のほかの日記』を残し、吉田に淡々流を広めた。
含芽
ガンガ
1715~1769

俳人
商人

和気郡三津村(現松山市)を中心に活躍した俳人で、当時、松山は蕉風俳諧が行われていたが、含芽だけは淡々流俳人として活躍した。
山中 関卜
ヤマナカ 
カンボク
1715~1769

俳人
庄屋

宇摩郡入野村(現四国中央市土居町)生まれ。淡々に師事し、入野に淡々流を広めた。また、芭蕉と淡々の塚を建立したり、入野を万葉集の歌枕として顕彰に努めたりした。
山中 錦鳥
ヤマナカ 
キンチョウ
1715~1772

俳人

宇摩郡入野村(現四国中央市土居町)生まれ。作風は繊細で才能がうかがえ、関卜の死後、『随想句文集』(仮題)2冊を残している。また、妹のみちと医王寺の本堂「妙照閣」を建立した。
木村 牧雨
キムラ ボクウ
生年不詳
~1776

俳人

新居郡西条(現西条市)を中心に活動し、淡々の弟子湖照の『続にはくなぶり』に投句したり、秀句に富む『月声集』を刊行するなど西条に淡々流を広めた。
呉天
ゴテン
1719~1797

俳人
庄屋

宇摩郡土居村(現四国中央市)を中心に活動。『弐百歌仙表合』を土居神社に奉納するなど、土居淡々流の中心的存在であった。また、関トらとともに点取俳諧の流行をもたらした。
中山 五嶺
ナカヤマ 
ゴリョウ
1722~1791

俳人
松山藩士

松山城下(現松山市)を中心に活動。河端五雲に師事し、俳諧を学ぶ。『俳諧器水弁』などの俳論を著し、更互・志山・五雲が亡き後、松山俳壇の中心となり活躍した。
山中 時風
ヤマナカ ジフウ
1738~1796

俳人
庄屋

宇摩郡入野村(現四国中央市土居町)の人。11歳で淡々に師事し、『時風発句集』等を著す。入野の顕彰に努め、小林一茶など多くの俳人を招き、土居の風流人として俳諧活動を続けた。
格 淡斎
カク タンサイ
生没年不詳
(江戸時代)

俳人
松山藩士

松山城下(現松山市)生まれ。京・大坂の俳風を伊予に伝えた。蕉門の惟然らと交流があり、芭蕉追慕の『其木からし』を刊行した。晩年は姫路に住んだ。
村山 一志
ムラヤマ イッシ
生没年不詳
(江戸時代)

俳人
塩田庄屋

野間郡波止浜村(現今治市)を中心に活動した俳人で、延亨4年には石鎚と道後温泉の句を編集した『素羅宴』を刊行した。
臥牛洞 狂平
ガギュウドウ
キョウヘイ
生没年不詳
(江戸時代)

俳人

松山城下(現松山市)を中心に活動した俳人で、宝暦5年に師の各務支考の25回忌に追善仮名詩を作り、道後円満寺に碑を建立した。また、句集『きさらき』を刊行。
定雄
テイユウ
生没年不詳
(江戸時代)

俳人

吉田(現宇和島市)を中心に活動した俳人で、『押花宴』『棗亀』などに句が収められている。京阪の俳人とも交流をもち、同時期の狸兄らとともに淡々流を広めた。
栗田 樗堂
クリタ チョドウ
1749~1814

俳人
商人

松山城下の松前町(現松山市)生まれ。芭蕉の精神を継ぐ加藤暁台に師事し、俳諧を学ぶ。小林一茶ら多くの俳人と交流を持ち、全国的に名を知られ『樗堂俳諧集』などの著作を残している。
岩城 蟾居
イワキ センキョ
1789~1864

俳人
町年寄

吉田の町年寄。俳諧は、大坂の松井三津人、京都の成田蒼虬に師事したが自身の信念に基づく俳諧を目指した。当時の宗匠の在り方や月並俳諧への痛烈な批判、実景描写の重視、発句を中心に捉えるなど、子規の俳句革新に先駆けた卓見を多く遺し、江戸俳諧と近代俳句をつなぐ俳人として重要な役割を果たした。
石井 義郷
イシイ ヨシサト
1812~1859

歌人
松山藩士

松山城下(現松山市)を中心に活動。長歌に優れ、門人も多く、幕末期の伊予歌壇を指導した。歌調は端正で滋味のあるものが多い。『石井義郷歌集』に短歌、長歌など940首を収録。
西村 清臣
ニシムラ 
キヨオミ
1812~1879

儒者
歌人

松山城下(現松山市)生まれ。幼くして文武を学び、絵画、彫刻に秀で国学に造詣が深かった。特に和歌を好み、石井義郷を師と仰ぎ、江戸の海野遊翁、香川景樹にも学んで地方歌人として名を成した。明治6年、皇学所助教となり教務省から中講義に補せられた。
内藤 鳴雪
ナイトウ 
メイセツ
1847~1926

俳人

江戸(現東京都)の松山藩邸生まれ。常盤会寄宿舎に在舎していた正岡子規の感化を受け俳句の道に入る。漢詩的情趣の句を得意とし『鳴雪句集』など多数の著書を残している。
末広 鉄腸
スエヒロ 
テッチョウ
1849~1896

新聞記者
政治小説家

宇和島城下の笹町(現宇和島市)生まれ。政治運動に奔走し、自由民権を積極的に唱え「東京曙新聞」等の主筆として活躍した。後に、政治小説を執筆し、『雪中梅』ほか多数を刊行した。
大和田 建樹
オオワダ タケキ
1857~1910

国文学者
歌人
詩人

宇和島城下の丸之内(現宇和島市)生まれ。多数の和歌、唱歌、国文学等の著作を発表し、なかでも「地理教育鉄道唱歌」は有名で、全国的に歌われた。また、能の研究家としても知られる。
中野 逍遥
ナカノ 
ショウヨウ
1867~1894

漢詩人

宇和島城下の賀古町(現宇和島市)生まれ。漢詩に意を注ぎ、杜甫やシラーに傾倒。青春の情熱・憂愁を詩に残して、27歳で夭折した。没後、一周忌にあたって『逍遥遺稿』が出版された。
正岡 子規
マサオカ シキ
1867~1902

俳人
歌人
随筆家

松山城下の藤原新町(現松山市)生まれ。結核を発病後も、俳句や随筆の創作と短歌の研究会を続ける。虚子や碧梧桐などの継承者の育成にも努め、文学革新の実をあげた。
夏目 漱石
ナツメ ソウセキ
1867~1916

小説家
英文学者

江戸牛込馬場下横町(現東京都)の生まれ。明治28年に愛媛県尋常中学校の英語教師として来松し、子規と愚陀佛庵に同居した。この時の俳句修業が、後の文豪の基礎を作ったといわれる。
柳原 極堂
ヤナギハラ 
キョクドウ
1867~1957

新聞記者
俳人

松山城下の北京町(現松山市)生まれ。松山で俳誌『ほとゝぎす』『鶏頭』を創刊。松山子規会を結成し『友人子規』などを著し、子規の研究・顕彰に半生を捧げた。
徳冨 蘆花
トクトミ ロカ
1868~1927

小説家

肥後国葦北郡水俣(現熊本県)生まれ。今治でキリスト教の伝道と英語教師を勤め、『思出の記』や『黒い眼と茶色の目』の中に、今治でのことを描いている。
村上 霽月
ムラカミ 
セイゲツ
1869~1946

俳人
実業家

伊予郡西垣生村(現松山市)生まれ。経済界で活躍する一方、漢詩に俳句で唱和する転和吟を創始。さらに、絵に俳句を配する題画吟も始め、俳句の伝統性に新しい境地を開いた。
五百木 飄亭
イオキ 
ヒョウテイ
1870~1937

俳人
政治運動家

温泉郡小坂村(現松山市)生まれ。日清戦争に従軍し、新聞「日本」に「従軍日記」を寄せる一方、俳誌『鶏頭』に『句日記』を連載、秀吟を残した。遺著『飄亭句日記』がある。
河東 碧梧桐
カワヒガシ 
ヘキゴトウ
1873~1937

俳人
書家

松山城下の千船町(現松山市)生まれ。高浜虚子とともに子規門下の双璧で、俳句の近代化に取り組み、新傾向俳句の先駆者となった。常に新生面を開拓し、俳句や書は前衛派の原点といわれる。
高浜 虚子
タカハマ キョシ
1874~1959

俳人

松山城下の長町新町(現松山市)生まれ。自ら守旧派と称し、17字の定型と季題を守った花鳥諷詠を説き、俳壇の主流となった。主宰する『ホトトギス』を通じて、多くの俊才を育てた。
水野 広徳
ミズノ ヒロノリ
1875~1945

軍人
軍事評論家
小説家

和気郡広町(現松山市)生まれ。日露戦争を題材とした『此一戦』は桜井忠温の『肉弾』とともに戦記文学の双壁とされた。第一次大戦後、非戦・平和論を展開した。
寒川 鼠骨
サムカワ ソコツ
1875~1954

俳人

松山城下の三番町(現松山市)生まれ。子規没後、東京根岸の子規庵保存に生涯を捧げるとともに、『子規遺墨集』や『分類俳句全集』の出版に努め、子規顕彰に力を尽くした。
押川 春浪
オシカワ 
シュンロウ
1876~1914

少年冒険小説家

松山城下の小唐人町(現松山市)生まれ。厳谷小波の影響を受け、少年冒険小説を書き始める。『海底軍艦』等の多数の作品は、富国強兵の時流に乗って、青少年の熱烈な支持を得た。
松根 東洋城
マツネ 
トウヨウジョウ
1878~1964

俳人

東京府東京市築地(現東京都)生まれ。大正天皇の俳句についての御下問に「渋柿の如きものにては候へど」と句を添えて奉答した。俳誌『渋柿』を創刊。芸術院会員に推される。
桜井 忠温
サクライ 
タダヨシ
1879~1965

軍人
小説家

松山城下の小唐人町(現松山市)生まれ。日露戦争で負傷し、療養中に書いた『肉弾』は戦記文学の先駆けとして広く読まれた。画技にも秀でており、格調高く雅味ある画風と評された。
森田 義郎
モリタ ギロウ
1881~1940

歌人

周布郡新屋敷村(現西条市)生まれ。子規に短歌を学び、愛媛出身では唯一の根岸短歌会のメンバーで、伊藤左千夫と歌誌『馬酔木』を創刊。短歌は万葉調で恋歌、時事歌に優れている。
種田 山頭火
タネダ 
サントウカ
1882~1940

俳人

山口県佐波郡西佐波令村(現山口県)生まれ。荻原井泉水に師事して、自由律俳句誌『層雲』に出句。九州・四国・中国を行脚し、松山の一草庵で急死した。漂泊の俳人として知られる。
片上 伸
カタガミ ノブル
1884~1928

文芸評論家
ロシア文学者

野間郡波止浜村(現今治市)生まれ。ロシアに渡りロシア文学を学び、帰国後、早稲田大学ロシア文学科の主任教授に就任、プロレタリア文学の理論的根拠を確立した。批評家の第一人者として評価されている。
村上 壺天子
ムラカミ 
コテンシ
1887~1984

教育者
俳人

越智郡大山村(現今治市吉海町)生まれ。師範学校時代に村上霽月に俳句の指導を受け、のち松根東洋城に師事し『渋柿』同人となる。書画をよくし、豊かさ渋み、枯淡合一の作品を遺す。
前田 伍健
マエダ ゴケン
1889~1960

愛媛川柳界の
第一人者
野球拳の創始者

現香川県高松市生まれ。川柳は、東京の窪田而笑子に学んで全国川柳界の七賢人に選ばれるまでになり、大正末期から県下柳壇の第一人者として川柳の指導、普及に尽力。昭和22年、全国に先駆けて愛媛県川柳文化連盟を結成し、初代会長となった。また、野球拳の創始者としても知られる。
獅子 文六
シシ ブンロク
1893~1969

小説家
演出家

神奈川県横浜市生まれ。文学座の創立者の一人。太平洋戦争末期に妻の郷里北宇和郡岩松町(現宇和島市津島町)に疎開し、そこでの見聞をもとに『てんやわんや』などの作品を発表した。
高浜 年尾
タカハマ トシオ
1900~1979

俳人

東京府神田猿楽町(現東京都)生まれ。『俳諧』を創刊主宰して、俳句の外国語訳など国際化に務める。長く「愛媛俳壇」の選者としても活躍した。年尾の名は子規が命名した。
中村 草田男
ナカムラ 
クサタオ
1901~1983

俳人

清国福建省厦門(現中国福建省)生まれ。高浜虚子に師事し『ホトトギス』の同人となったが、後に離脱。俳誌『萬緑』を創刊し、思想詩としての俳句を結晶させ、人間探求派といわれた。
高橋 新吉
タカハシ 
シンキチ
1901~1987

詩人

西宇和郡伊方村(現伊方町)生まれ。言葉の脈絡をなくすダダイズムの影響を受けた詩は、当時の詩壇の注目を集めた。その後、禅の世界に傾倒し、独自の詩の世界を展開した哲学詩人である。
富沢 赤黄男
トミザワ カキオ
1902~1962

俳人

西宇和郡川之石村(現八幡浜市保内町)生まれ。無季俳句への進展を目指して、新興俳句運動に参加。俳誌『太陽系』『薔薇』を創刊し、詩的可能性の限界を追求した。句集に『蛇の笛』などがある。
深川 正一郎
フカガワ 
ショウイチロウ
1902~1987

俳人

宇摩郡上山村(現四国中央市)生まれ。虚子の俳句朗詠のレコード吹き込みを企画実施し、その時に、虚子の知遇を得て師事。温厚な人柄で句風も穏やかで巧みであり、写生文にも長じていた。
芝 不器男
シバ フキオ
1903~1930

俳人

北宇和郡明治村(現松野町)生まれ。『ホトトギス』に投句し、虚子に認められる。最初に万葉調俳句を作ったといわれ、清冽な青春の叙情句を残し、26歳の短い一生を終えた。
星野 立子
ホシノ タツコ
1903~1984

俳人

東京府麹町区富士見町(現東京都)生まれ。俳誌『玉藻』を創刊。素朴な感受性で、柔軟なリズムにのせて詠う花鳥諷詠が特徴で、中村汀女とともに女流俳人の双璧といわれた。
村上 杏史
ムラカミ 
キョウシ
1907~1988

俳人

温泉郡東中島村(現松山市中島大浦)生まれ。ホトトギス派の俳誌『柿』を主宰し、組織の発展に尽力した。また、愛媛ホトトギス会・松山俳句協会・愛媛俳句協会の会長も務めた。
坂村 真民
サカムラ 
シンミン
1909~2006

詩人

熊本県生まれ。58歳のとき砥部町に定住。詩はわかりやすいものが多く、年齢、職業を問わず幅広く愛された。特に「念ずれば花ひらく」は多くの人の共感を呼び、その詩碑は海外にまで建てられている。
石田 波郷
イシダ ハキョウ
1913~1969

俳人

温泉郡垣生村(現松山市)生まれ。俳誌『鶴』を主宰し人間探求の句を主導。中村草田男・星野立子とともに「朝日俳壇」の選者を務めた。句集に『鶴の眼』『石田波郷句集』がある。
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