第一展示室(政治・行政)
名前 | 生年・没年 | 説明 | |
---|---|---|---|
藤原 純友 フジワラノ スミトモ |
生年不詳 ~941 |
平安時代中期の官吏 |
伊予掾に任じられたが任終了後も京に戻らず、伊予国日振島(現宇和島市) を拠点に海賊の首領となり、瀬戸内海全域に勢力をのばした。天慶2年、東国の平将門と時を同じくして反乱を起こし、大宰府(現福岡県) を襲撃するなどしたが、朝廷から派遣された小野好古、源経基らによって滅ぼされた。 |
河野 通有 コウノ ミチアリ |
1250~1311 |
鎌倉時代の武将 |
久米郡石井郷(現松山市)生まれ。弘安4年の弘安の役では、博多湾の石塁を背にして陣取り、「河野の後築地」と賞賛されるほどの豪胆さで奮戦した。後、西国の海賊の鎮圧にもあたった。 |
足立 重信 アダチ シゲノブ |
生年不詳 ~1625 |
加藤嘉明の重臣 |
美濃国(現岐阜県)生まれ。土木治水に精通し、加藤嘉明のもとで重信川・石手川の改修、松山城の築城や城下町建設を指揮し、松山繁栄の基礎をつくった。 |
藤堂 高虎 トウドウ タカトラ |
1556~1630 |
宇和島城主 |
近江国犬上郡藤堂(現滋賀県)生まれ。宇和郡板島7万石、後、今治20万石の城主。築城に優れ、今治城、江戸城などに手腕を発揮。家康に重用されて津(現三重県)32万石の城主に転封した。 |
加藤 嘉明 カトウ ヨシアキ |
1563~1631 |
松山城主 |
三河国幡豆郡永良郷(現愛知県)生まれ。松前6万石、後、20万石の城主。勝山の地に松山城を築城するとともに、重信川や石手川の改修など城下町を整備し、現在の松山の基を築いた。 |
松平 定行 マツダイラ サダユキ |
1587~1668 |
松山・松平家 |
三河国宝飯郡西郡(現愛知県)生まれ。道後温泉の施設の充実をはじめ、松山城天守閣の改修や殖産興業政策を推進し、松山藩の基礎を固めた。父定勝は徳川家康の異父弟。 |
伊達 宗城 ダテ ムネナリ |
1818~1892 |
宇和島・伊達家 |
江戸(現東京都)生まれ。文武を奨励し、二宮敬作等を重用し蘭学の導入を図るなど、幕末四賢侯の一人に数えられた。維新後も議定、大蔵卿等の要職を歴任した。 |
加藤 拓川 カトウ タクセン |
1859~1923 |
外交官 |
松山城下の歩行町(現松山市)生まれ。子規の叔父。フランス留学後外務省に入り、大臣秘書官・ベルギー公使等を歴任。大正11年、第5代松山市長に就任。松山高等商業学校(現松山大学)創立の際は、新田長次郎に資金支援の依頼を行い、学校創立の中心的役割を果たした。 |
勝田 主計 ショウダ カズエ |
1869~1948 |
県人初の国務大臣 |
松山城下の御宝町(現松山市)生まれ。大蔵次官を退官後、貴族院議員に勅撰され、大正5年、県人初の蔵相となる。その後、再度の蔵相や文相を歴任した。俳句を好み宰州と号した。 |