第二展示室(産業)
名前 | 生年・没年 | 説明 | |
---|---|---|---|
天野 喜四郎 アマノ キシロウ |
1690~1756 |
多喜浜塩田開発者 |
備後国御調郡吉和村(現広島県)生まれ。西条藩の命を受け、享保9年に最初の塩浜「多喜浜」を完成させた。その後も塩田・田畑などの干拓を行い、伊予国最大の塩田地帯の基を作った。 |
杉野 丈助 スギノ ジョウスケ |
生没年不詳 (江戸時代) |
砥部焼陶祖 |
浮穴郡上麻生村(現砥部町)生まれ。大洲藩の命を受け、上原窯を築き、苦労の末、磁器の試し焼きに成功した。その後、釉薬の自給に成功するなど、砥部焼発展の基礎を築いた。 |
鍵谷 カナ カギヤ カナ |
1782~1864 |
伊予絣の創始者 |
伊予郡垣生村今出(現松山市)生まれ。屋根の押し竹を縛った斑模様から今出絣を考案したと伝えられる。その後、伊予絣は日本三大絣の一つに数えられる地場産業に発展した。 |
伊佐庭 如矢 イサニワ ユキヤ |
1828~1907 |
県吏員 |
道後の医者の三男として生まれる。明治維新後松山藩に出仕、廃藩置県後は愛媛県吏員、高松中学校長、金刀比羅宮禰宜などを歴任。明治23年、道後湯之町初代町長に就任、三層楼の道後温泉本館の建築、道後鉄道敷設などに尽力、観光都市松山の基礎を築いた。 |
広瀬 宰平 ヒロセ サイヘイ |
1828~1914 |
住友家初代総理事 |
近江国野洲郡八夫村(現滋賀県)生まれ。新居郡金子村(現新居浜市)の広瀬家の養子となり、別子銅山の近代化に努めた。後、住友家初代総理事となり「住友中興の祖」といわれた。 |
向井 和平 ムカイ ワヘイ |
1842~1904 |
砥部焼中興の祖 |
浮穴郡五本松村(現砥部町)生まれ。家業を継いだ後、錦絵磁器製造を始め、陶工の養成、淡黄磁器焼成法の発案をはじめ、輸出の振興等にも尽力し「砥部焼中興の祖」といわれた。 |
井部 栄範 イベ ヨシノリ |
1842~1914 |
久万林業の先駆者 |
紀伊国和歌山城下(現和歌山県)生まれ。大宝寺の執事をしていたが、還俗して林業育成を始め、今日の久万林業の基礎を作った。村長などの公職にも就き、地方の産業経済の発展に寄与した。 |
小林 信近 コバヤシ ノブチカ |
1842~1918 |
県政界・経済界の |
松山城下(現松山市)生まれ。維新後、陶器製造業を始め、以来、松山米商会や第五十二国立銀行(現伊予銀行)、伊予鉄道会社を設立するなど県経済界の先覚者として活躍した。 |
浦和 盛三郎 ウラワ セイザブロウ |
1843~1892 |
漁業家 |
御荘組内海浦ノ内網代浦( 現愛南町) に生まれる。明治22 年、浦和式金輪網( 巻き網の一種) を発明、沖取漁業に画期的技術を導入した。また、漁獲物の塩蔵や燻製を行うための大加工場を建設、それら加工品の大阪への販路を開くため会社を設立するなど地元の漁業と経済の発展に力を尽くした。 |
阿部 平助 アベ ヘイスケ |
1852~1938 |
今治タオルの |
今治城下の室屋町(現今治市)生まれ。泉州(現大阪府)で見た西洋手拭(現在のタオル)に着目し、明治27年、風早町(現今治市)で製織を始め、今日の今治タオルの草分けとなった。 |
矢野 七三郎 ヤノ シチサブロウ |
1855~1889 |
伊予ネルの創始者 |
野間郡宮脇村(現今治市大西町)生まれ。紀州ネルに着目し、明治19年、今治で伊予ネル(三ツ綾織りで片毛の綿ネル)製織を始め、今治地域に織物産業が定着する契機をつくった。 |
宇都宮 誠集 ウツノミヤ ノブチカ |
1855~1907 |
夏柑栽培先覚者 |
宇和郡三崎浦松(現伊方町)生まれ。郵便局に勤めながら、温州みかんや夏みかん(夏柑)の普及に努め、三崎村(現伊方町)を夏みかんの銘柄産地に発展させた。 |
篠原 朔太郎 シノハラ サクタロウ |
1865~1952 |
和紙製造功労者 |
宇摩郡川之江村(現四国中央市川之江町)生まれ。製紙技術の研究に生涯を捧げ、和紙製造用叩解機の導入による機械化・動力化や三角型乾燥機の発明により製紙業の発展に貢献した。「紙聖」と称えられている。 |
山下 亀三郎 ヤマシタ カメサブロウ |
1867~1944 |
実業家 |
宇和郡喜佐方村(現宇和島市吉田町)生まれ。山下汽船を創立し、業界の大手に育て上げ「海運王」といわれた。また、高等女学校(現吉田高校・宇和高校三瓶分校)の設立をはじめ公共事業にも尽力した。 |
岡田 温 オカダ ユタカ |
1870~1949 |
農業技師 |
久米郡南土居村(現松山市)に生まれる。帝国大学農科大学乙科卒業後、全国農事会に入ったが1年余で帰郷。愛媛県農会技師時代に住友の四阪島製錬所の煙害問題解決に努めた。大正10年からは帝国農会幹事に就任し、全国的な米生産費調査や農業経営改善調査などに取組む。 |
高橋 龍太郎 タカハシ リュウタロウ |
1875~1967 |
国産ビールの |
喜多郡内子村(現内子町)生まれ。ミュンヘンに留学して醸造学を修め、ビールの国産化に成功。ビール産業隆盛の基礎を築き「ビール王」といわれた。また、日本商工会議所会頭や通産大臣も務めた。 |
鷲尾 勘解治 ワシオ カゲジ |
1881~1981 |
住友別子鉱山(株) |
兵庫県武庫郡須磨村( 現神戸市)に生まれる。住友別子鉱業所入社後、一介の坑夫として働いた経験を活かして私塾「自彊舎」を開き、坑夫教育と共に、企業と地域の共存共栄に努めた。昭和2年、住友別子鉱山㈱常務取締役就任後、銅山の枯渇を見据えて鉱業に代わる地方後栄策を図り、工業都市新居浜の礎を築いた。 |
岡部 仁左衛門 オカベ ニザエモン |
1883~1960 |
花かつお製造 |
伊予郡尾崎村(現伊予市)生まれ。名古屋で削り節を見つけて地元に導入。削り機を苦心して改良し「ヤマニの花かつお」として全国に売り出し、水産加工に大きな功績を残した。 |
高畑 誠一 タカハタ セイイチ |
1887~1978 |
総合商事会社の |
喜多郡内子村(現内子町)生まれ。鈴木商店の倒産後、日商(後の日商岩井、現在の双日)を設立し、わが国屈指の総合商社に育てあげた。また、内子町に高畑奨学資金を設け人材の育成にも力を注いだ。 |
山中 義貞 ヤマナカ ヨシサダ |
1897~1986 |
県経済界・ |
宇摩郡土居村(現四国中央市土居町)生まれ。戦前は、県議会議員・衆議院議員を務める。戦後は、愛媛新聞社社長、南海放送社長・会長として県経済界・マスコミ界の重鎮として活躍した。 |
井関 邦三郎 イセキ クニサブロウ |
1899~1970 |
総合農機メーカー |
北宇和郡三間村(現宇和島市三間町)生まれ。高性能の全自動籾すり機の製造・販売を松山で始め、戦後の農業機械化ブームに乗って、井関農機を我が国を代表する総合農機メーカーに育てあげた。 |
井川 伊勢吉 イカワ イセキチ |
1909~1990 |
製紙会社会長 |
宇摩郡三島町(現四国中央市)生まれ。製紙原料商から身を興こす。大王製紙を設立し、パルプから紙までの一貫製紙工場を作り、本県製紙業発展の基礎を築いた。 |